徳川頼房

徳川頼房(左)と徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康の11男・徳川頼房~御三家水戸藩を独特のポジションに押し上げる

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甥っ子・家光と仲良しです

徳川頼房が初めて元和五年(1619年)10月に水戸へ入ってから、以降はかなりドタバタした日々となります。

2ヶ月後には江戸へ戻り、次に水戸へ行ったのは寛永二年(1625年)。

そこから寛永七年(1630年)まで、江戸と水戸をほぼ毎年往復しながら、水戸城や城下町の設備や法の整備を進めているのです。

他の御三家(尾張や紀伊)と比べればかなり近いですが、相当忙しい生活ですよね。

“毎年”ではなく”ほぼ毎年”となっているのは、寛永三年(1626年)に徳川家光のお供として上洛しているためです。

家光とは相性が良かったようで、寛永十年(1630年)にお勝の方(この頃は落飾して英勝院)を通して、

「そなたには何事も相談したいし、兄弟同然に思っている」

と伝えています。

これには家光の家庭環境も影響していたと考えられます。

家光は同母弟・松平忠長と仲が悪く、異母弟・保科正之は信用できるものの出自故に頼りきれない、という状況でした。

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同じく年の近い叔父としては義直や頼宣もいますが、彼らはかつて謀反の疑いをかけられたことがあったため、信じきれなかったのでしょう。

そのため、一番歳の近い血縁者である頼房へ「信頼している」と明言したのではないかと思われます。

これを受けてか、以降の頼房と代々の水戸藩主は江戸常住(定府)となりました。

水戸徳川家の当主に「副将軍」というあだ名がついたのも、ここから来ているようです。

 

奨学の気風から水戸学へ

水戸藩の領域はもともと佐竹氏の領地だった場所です。

関ヶ原後に同氏が改易され、新しく徳川頼房が入ってきたため、当初は藩政にもなかなか難儀したようです。

一方で頼房は、国元で儒学や神道などの学問にも励みました。

二代藩主となった光圀も学問を好んだため、水戸藩は奨学の気風が定着。やがて”水戸学”という学問体系が作られ、幕末の尊皇攘夷に繋がっていきます。

頼房の時代に水戸家であまり騒動がなかったのは、彼の性格のおかげかもしれません。

実は御三家が「御三家」と呼ばれるようになり、立場が固まったのはもう少し後の時代なのです。

家康が亡くなってから家光の時代くらいまでは、尾張家の義直と紀伊家の義宣の間で「どちらが格上か」といったことで静かに火花を散らしており、年少の頼房は一歩引いたような立場にいました。

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また、家光の時代初期は、前述の徳川忠長が”将軍に最も近い血縁者”だったこともあり、頼房自ら

「御三家というのは宗家と尾張家、そして紀伊家のことを言うのだ」

と主張していたとか。

揉める前に自分の立場を少し下げておくことによって、争いを避けようとしたのかもしれませんね。

それから少し時間が経過して、尾張家と紀伊家がそれぞれの息子に代替わりすると、少し席次が変わり、

1.忠長
2.頼房
3.光友(尾張家二代)・光貞(紀伊家二代)

となりました。

この席次が以降受け継がれていきましたので、水戸家は”官位や領地では尾張と紀伊の二家に及ばずとも、名誉の上では同等以上といえる状態になった”といっても過言ではありませんでした。

 

十一男十五女の子だくさん

大きなトラブルもなく、身を処してきた徳川頼房。

おそらく、嗣子である徳川光圀の言動には手を焼いたものと思われます。

派手な親子喧嘩に発展するようなことにはならず、頼房が亡くなる間際には、光圀自ら看病したともされています。

記録に残らない日常においては、一般には知られない温かい会話もあったかもしれませんね。

そして頼房は寛文元年(1661年)7月29日に水戸城で亡くなり、「威公」という諡号を与えられています。

儒教に基づいた中国風の諡号も、水戸家の伝統として受け継がれていきました。

ちなみに光圀は「義公」、幕末の話題でたびたび登場する徳川斉昭は「烈公」です。

なんとなく「なぜその字をつけたのか」がうかがえますね。

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頼房が後世に大きな影響を残した点が二つあります。

一つは、前述の学問奨励→水戸学→尊皇攘夷の流れ。

そしてもう一つが、男系子孫を数多く残したことです。

頼房は父・家康を超える子福者で、なんと十一男十五女にめぐまれました。

これによって水戸家の血が守られたのはもちろん、他家へ養子に行ったり嫁いでいった人もいましたので、頼房の子孫は文字通り末広がりに栄えていったのです。

2022年時点での徳川宗家のご当主・徳川恒孝氏も頼房の子孫です。

ちなみに女系の子孫を含めると、幕末の名君として有名な島津斉彬や鍋島直正、元総理大臣の細川護熙氏などがいます。

錚々たる顔ぶれですね。

家はもちろんのこと、血を残すことも武家の大きな目的の一つですから、頼房は立派にそれを成し遂げたといえます。

家康やお勝の方も誇らしく思っていたのではないでしょうか。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
藤井讓治『徳川家康 (人物叢書)』(→amazon
新人物往来社『徳川将軍家・松平一族のすべて』(→amazon

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