しかし、それ一辺倒だとチームワークが機能しにくくなったりするから加減が難しく、いかにも実直そうな三河武士の中では、それを両立させた人がいました。
【徳川四天王】及び【徳川十六神将】に数えられる酒井忠次です。
1527年(大永7年)生まれで、1596年12月17日(慶長元年10月28日)に亡くなられており、
・関ヶ原の戦い(1600年)
・征夷大将軍就任(1603年)
という徳川のビッグイベントを見ていない――というのは少し意外な気もしますね。
まぁ、徳川家康が天文11年(1543年)生まれで、16歳も年齢差があり、早死されているワケでもないのですが、では忠次自体はどんな一生を送った人なのか。
振り返ってみましょう。
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家康父の代から仕えた酒井忠次
酒井忠次は、家康の父・松平広忠の代から仕えていました。
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家康が今川家へ人質に出されたときには23歳になっていて、お供の中では最年長だったそうです。
【桶狭間の戦い】の頃には家老の一人となり、家康の生涯で節目の一つ【三河一向一揆】でも家康の側近として活躍しました。
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実は三河一向一揆のときは酒井家のメンツも一揆側についていたのですが、忠次はあくまで家康の側を離れておりません。
「犬のような忠義」といわれる三河武士の中でも、特に忠誠心の厚い人だったということですね。
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その後も武働きや外交など、さまざまな面で家康を支えています。
これまた家康の一生で大きなイベント(手痛い敗戦)となった【三方ヶ原の戦い】でも、忠次は善戦して武田軍の一部隊を破り、家康が浜松城へ撤退すると、自らやぐらに登って太鼓を打ち鳴らしたといわれています。
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太鼓の件については三国志で諸葛亮がやった「空城の計」を借用した創作話だともいわれていますが。
※三方ヶ原の戦いの後、徳川方の帰還兵を受け入れるため灯りをつけて開城されていたことが、逆に武田方・山県昌景の警戒心を煽り、結果、家康の命が助かったという逸話がある
武田家に皮肉たっぷりの返歌
また、三方ヶ原の戦いの翌年正月、忠次が別の点で機転を利かせた逸話が伝わっています。
武田家から
松枯れで 竹類(たけたぐい)なき 明日かな
というイヤミったらしい句が送られてきたときのことです。
家康も家臣たちも激おこになりましたが、忠次はこれにちょっとした落書き?を施しました。
漢字に直すと
松枯れで 武田首なき 明日かな
というように書き換え、イヤミ返しをしたのです。
ついでに門松の竹を、首を切るかのように斜めに切り落としたとか。
この二つの逸話、真贋の程ははっきりしないものの、少なくとも「忠次ならばこういった機転も利くだろう」と思われていたことがよくわかりますね。
文武両道という言葉そのままの人だったのでしょう。
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