築山殿築山殿(瀬名姫)

築山殿(右)と夫の徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康の正室・築山殿(瀬名姫)は重たい女?最後の手紙と殺害理由

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築山殿(瀬名姫)
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家康の祖父である松平清康や父の松平広忠が、織田信秀(信長の父)と長年の宿敵関係にあり、更には元康自身も織田信秀のもとで人質生活を送っていたことがあり、織田家とはそうやすやすと同盟締結に至りそうになかったのである。

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しかし、元康の伯父・水野信元や、実母・於大の方の再婚相手・久松定俊(後の俊勝)の尽力があって、元康は信長の居城・清洲城を訪問。

以降、戦国時代において珍しく強固な「清洲同盟」(「織徳同盟」「尾三同盟」とも)が結ばれたのである。

締結日については、『信長公記』など第一級史料に掲載がないのが不思議だが、永禄4年(1561)9月とも、永禄5年(1562)1月ともいう。

 

夫の清洲同盟を遠く駿府の地で聞く

この同盟締結を遠く駿府の地で驚き、悲しんだのは瀬名姫である。

夫が、今川家の仇・織田信長と同盟?

これで夫は今川と切れた。私も離縁される?

今川寄りの妻子(築山殿と長男・松平信康、長女・亀姫)は桶狭間の戦い以降、駿府に残されたままで人質状態になっていた。

ほどなくして永禄5年(1562年)、元康は依然として今川傘下にあった三河国内の鵜殿長照(うどの ながてる)を攻めた。

長照は今川義元の妹の子であり、桶狭間の戦いの時には、元康が兵糧を入れて助けた大高城代であった。

このとき長照は愛知県蒲郡市神ノ郷町にある「上ノ郷城」におり、力攻めではなかなか屈しない同城に対し、元康は忍者を使って火をつけさせた。その様子を腰掛岩に座って見下ろしていたという。

そして首尾よく長照の子(氏長・氏次兄弟)を生け捕りにすると、駿府の妻子(築山殿・信康・亀姫)と人質交換することにした。

土塁の上の「上郷城址」碑

土塁の上の「上郷城址」碑

家康公の腰掛岩

家康公の腰掛岩

しかし、実際に人質交換するにあたっては、ひとつ問題があった。

「桶狭間の戦い」の時に母の胎内にいた亀姫が生まれており、交換には3人必要だったのである。

家康は、実母・於大の方に頼み、再婚相手との間に儲けた松平康俊(まつだいら やすとし)を差し出させた。

交換は吉田湊で行われ、妻子3人は船で岡崎城へ。

この時、交換は鵜殿兄弟と信康・亀姫との2人だけで、康俊と瀬名姫の入れ替わりは1年後だったとする説もある。

善照院殿泉月澄清大居士(松平康俊)の墓

善照院殿泉月澄清大居士(松平康俊)の墓

【参考】上ノ郷城跡を愛する会(→link

人質として駿府にいた松平康俊は、武田氏が駿府を攻めた時に捕えられ、人質として甲斐国で監禁。

雪の降る夜に脱走したため、足の指全てを凍傷で無くしてしまう。

それを見た於大の方は「今後、自分の子は人質に出さない」と決めたという。

後に豊臣秀吉が人質を要求してきた時、家康は於大の方に断られ、結果、次男・秀康を秀吉の養子(実質的には人質)に差し出したため、三男・徳川秀忠が徳川二代将軍となっている。

 

瀬名姫の両親が自害に追い込まれ

大事な人質をまんまと家康に取り戻され、今川氏真は怒り心頭に発したのであろう。

完全に歯止めが効かなくなったようで、永禄5年(1562)、関口屋敷において瀬名姫の両親を自害させた。

「娘(瀬名姫)の夫(松平元康)が今川氏を裏切った罪」

あるいは

「娘婿に同調して今川氏を裏切る可能性がある」

というのがその理由だ。

最近の学説では、織田信長を諌めようと自害した平手政秀のように「今川氏真を諌めるための自害だった」という考え方もあるが、ともかく瀬名姫両親の自害は、夫・松平元康と無縁ではない。

そして元康は、今川氏との縁が完全に切れると、永禄6年(1563)、今川義元から貰った「元」の字を捨て、「元康」から「家康」に改名した。

総持尼寺と守護社・築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)

総持尼寺と守護社・築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)

駿府の人質生活から解放され、信康と亀姫は岡崎城へ移った。その一方で瀬名姫は一時的に軟禁生活を余儀なくされる。

それが彼女が「築山殿」と呼ばれる所以にもなっており、岡崎城から離れた「築山」(菅生郷築山)に住み、「築山殿」「築山御前」と称されるようになった(これ以前は「駿河の御前」だった)。

あるいは別の説では、家康の父・松平広忠が、水野氏が今川方から織田方に移ったため妻・於大の方を離縁したように、今川方から織田方に移った家康も瀬名姫を離縁し、息子の信康が彼女を呼び寄せて「築山」に住まわせたので「築山殿」と呼ばれるようになったともいう。

更には好色で有名な朝倉義景の側室になった後、信康に引き取られて築山に住んだから築山殿となった説なども。

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※築山の位置は、岡崎城の籠田総門付近にあり、人々が出入りするサロン(情報交換の場)になっていたとされる。そこで「軟禁状態」だったと目される

信康像(清瀧寺蔵)と「信康さん」(映画「反逆児」上映会にて)

信康像(清瀧寺蔵)と「信康さん」(映画「反逆児」上映会にて)

 

夫と姑にキレた徳姫が父・信長へ「12ヶ条の弾劾文」

元亀元年(1570年)6月、家康は、元服した信康に岡崎城を譲り、自身は浜松城へ移った。

城主になった信康は、母・築山殿を軟禁状態から解き、岡崎城内の東曲輪に入れたという。

これが大いなる悲劇の火種になった。

岡崎城には、松平家代表・於大の方(家康の実母)、今川家代表・築山殿(家康の正室)、織田家代表・徳姫(信康の正室)の3人の女性が揃ってしまったのである。

信康の妻・徳姫は、織田信長と生駒お類の長女であり、永禄10年(1567)5月27日に岡崎城へやってきていた(このとき2人は9歳)。

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ただでさえ難しい嫁姑の関係。築山殿と徳姫との溝は、日に日に深まっていく。

築山殿にとって徳姫は、宿敵・織田信長の娘であり、現代の常識から見ても好きになれるワケがない。

そして天正7年(1579年)8月、夫・信康とも仲が悪くなった徳姫は、ついに父の信長へ「徳姫12ヶ条の弾劾文」を届ける。

その内容は……。

徳姫から送られた弾劾文は、築山殿と信康親子を中傷したもので、古文書はまだ発見されていないが、復元すると次のようになるという。

①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。

②築山殿は、女子しか生んでない私の事を「役立たず」と言う。

③築山殿は、男子は妾に生ませればよいと、武田関係者の妾を用意した。

④築山殿は、浮気相手の減敬を通して武田と繋がっている。

武田勝頼は、信康を味方にし、織田・徳川滅亡後は信康を領主とし、築山殿は武田の武将・小山田と結婚させると言っている。

⑥信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれた侍女を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を裂いた。

⑦信康は、踊りが好きで、踊りが下手な者を射殺した。

⑧信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した。

⑨武田勝頼は、信康を味方にしたいと言っているので油断しないように。

⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。

⑪築山殿は、武田勝頼に「(今川義元を殺した)織田信長と(両親の自害の原因を作り、さらに今川家を滅亡させた)徳川家康を殺して欲しい」と言っている。

⑫近頃、岡崎城下で踊りが流行して、風紀が乱れているのは、城主の信康が愚公だからだ。

※「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)※2

言ってみれば

「築山殿は好色で派手」

「信康は残忍な愚公」

という愚痴であるが、信長にとっては到底無視できない箇所があった。

「信康が武田と組んで、信長や家康を殺そうとしている」

という点である。

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