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【築山殿(瀬名姫)】
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瀬名姫の死 諸説と大きく食い違う浜松での伝承
では築山殿の最期はいかなる状況だったのか?
実は、これがよく分かっていない。
①岡崎城から浜松城に向かう輿の中で、野中重政に槍で刺された
②岡崎城から浜松城に向かう途中、三ッ山で野中重政に首をはねられた
主に2つの説が挙げられ、小説や演劇では①のように描かれることが多い。
輿から引きずり出された築山殿は、大声で泣きわめき、呪いの言葉を吐くも、野中重政に首を切り落とされたという話である。
一方、②の築山殿は、凛として落ち着いているのが特徴だ。
小藪村で船から降りると「三ッ山に歓迎の宴の用意がしてございます」と言われて、「夫が出迎えに来てるかも」と思って輿に乗り、降りるとそこには白い横断幕……。全てを悟った築山殿は自害し、野中重政が介錯した。
片方は見苦しく、片方は実に潔い。一体どちらが本当の彼女なのか。
実は、そもそも浜松の伝承では、まったく異なる話が伝わっている。
「岡崎城から浜松城に向かう途中」で殺害されたのではなく、築山殿は浜松にいたとしているのだ。
背景にあるのは、徳川家康が、遠江侵攻時から築山殿を一緒に連れてきていたとする話で、
「女性を戦場には連れて行かないでしょ?」
と反論されそうだが、徳川家康は、阿茶局や、お梶の方(男装・騎乗)を同行させた実績もある。
実際、今川義元の姪である築山殿を遠江侵攻時に連れて行くのはメリットがある。
①自分は遠江国を領する今川家の姫の夫である
②妻の両親は今川氏真に自害させられた。これは敵討ちである
そう正当性を主張することができたという。
そして、引馬城を守るお田鶴の方を討ち終えると、築山殿は塚を築いて自ら100本余の椿を植えたとされるが、そこで彼女が病気になり、名医として有名な元慶が呼ばれるが、これがよくなかった。
築山殿と元慶が不義密通をしたのである。
怒った家康は、三ッ山での宴会中に、野中重政に殺させた――というのが浜松に伝わる顛末である(『遠江古蹟圖會』「築山御前の墓」)。
信長に見せた後、首は岡崎に埋められた
築山殿が首を落とされたことに関係する「築山御前遺跡」とは、次の4箇所のことである。
①気落し坂(三ッ山から太刀洗の池に下る坂)
②太刀洗の池(野中重政が槍や刀についた血を洗い流した池)
③御前谷(旧・大等ヶ谷。築山御前の墓である胴塚があった場所)
④比丘尼谷(築山御前の墓の面倒を見る比丘尼が住んでいた場所)
なぜか三ッ山は入っていない。
築山殿の首が落とされたのは、三ッ山ではなく太刀洗の池の畔ともされ、「気落し」(気絶)という名前から、この坂の途中で絶命したと想像される。
太刀洗の池で刀(村正ではなく相州貞宗)を洗うと池の水が真っ赤になり、不義密通の罪人であるので首のない胴体を埋めて塚とし、上に目印として石地蔵が置かれた。その胴塚の世話をする比丘尼がいたという。
築山殿の首は、信康の傅役・平岩親吉が織田信長に見せ、首実検をした後、岡崎に埋められた。
罪人(謀反人)であるから、墓もなければ、菩提寺もなく、ましてや法名もない。能見原(岡崎市能見町一帯)に埋めて塚とし、目印に榎が植えられ、石地蔵が置かれた。
これが「築山殿の首塚」である。
後に本多広信が、築山殿の菩提寺・梅築山西光院を建て、「西光院殿政岸秀貞大禅定尼」という法名を贈った。
西光院は、能見山松応寺(岡崎市松本町。能見町の南隣)の塔頭となったが、明治に入ると廃寺寸前となり、石地蔵の首は落ち、榎の巨木だけがあったという。
見かねた智厭尼が改修し、この「首切り地蔵菩薩」を本尊として祀ったのが地蔵院(岡崎市福寿町)である。
現在の本尊は阿弥陀如来に変わり、寺域が狭くなって首塚は均され、更に榎も切られて道路となっているが、築山殿のご位牌は保管されている。
「地蔵院」と聞くと、浜松市民は「護法山地蔵院」(浜松市南区高塚町)が頭に浮かぶが、築山殿の菩提寺ではない。
築山殿が肌身離さず持っていた石を地蔵尊の胎内に入れ、「腹篭地蔵尊」として位牌堂に安置している。
家康の特命を受けた石川数正
築山殿と松平信康は、さぞかし無念の死であったろう。
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両者は死後、怨霊となったらしく、岡崎では疫病が流行したり、火事が起こったりした。
そこで家康から「鎮魂せよ。しかし、罪人であるから、墓もダメ、菩提寺もダメ」という特命を受けたのが石川数正。
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築山殿のために築山神明宮(ご祭神:天照大神)、信康ために若宮八幡宮(ご祭神:仁徳天皇)を建てたという。
もちろん、ご祭神の天照大神と仁徳天皇は表向きで、実際は築山殿と信康である。
築山神明宮は、祐傳寺(岡崎市両町2丁目)の境内、通称「神明の森」に建てられた。
正保3年(1646)、当時の岡崎城主・水野忠善(三河岡崎藩の初代藩主)が、そこを足軽屋敷にしたので、八柱神社(岡崎市欠町石ケ崎)に合祀されている。
八柱神社のご祭神は、八王子(天照大神と素戔嗚尊が行った誓約(うけい)で生まれた五男三女神の8柱)であり、その親神(天照大神)を合祀しても差し支えない(後に信康の霊も合祀された)。
祐傳寺と八柱神社の石塔は「供養塔」であるが、「首塚」と呼ばれている。
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