築山殿築山殿(瀬名姫)

築山殿(右)と夫の徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康の正室・築山殿(瀬名姫)はなぜ殺された?家康には重たい女と思われていた?

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築山殿(瀬名姫)
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夫の清洲同盟を遠く駿府の地で聞く

この同盟締結を遠く駿府の地で驚き、悲しんだのは瀬名姫である。

夫が、今川家の仇・織田信長と同盟?

これで夫は今川と切れた。私も離縁される?

今川寄りの妻子(築山殿と長男・松平信康、長女・亀姫)は桶狭間の戦い以降、駿府に残されたままで人質状態になっていた。

ほどなくして永禄5年(1562年)、元康は依然として今川傘下にあった三河国内の鵜殿長照(うどの ながてる)を攻めた。

長照は今川義元の妹の子であり、桶狭間の戦いの時には、元康が兵糧を入れて助けた大高城代であった。

このとき長照は愛知県蒲郡市神ノ郷町にある「上ノ郷城」におり、力攻めではなかなか屈しない同城に対し、元康は忍者を使って火をつけさせた。その様子を腰掛岩に座って見下ろしていたという。

そして首尾よく長照の子(氏長・氏次兄弟)を生け捕りにすると、駿府の妻子(築山殿・信康・亀姫)と人質交換することにした。

土塁の上の「上郷城址」碑

土塁の上の「上郷城址」碑

家康公の腰掛岩

家康公の腰掛岩

しかし、実際に人質交換するにあたっては、ひとつ問題があった。

「桶狭間の戦い」の時に母の胎内にいた亀姫が生まれており、交換には3人必要だったのである。

家康は、実母・於大の方に頼み、再婚相手との間に儲けた松平康俊(まつだいら やすとし)を差し出させた。

交換は吉田湊で行われ、妻子3人は船で岡崎城へ。

この時、交換は鵜殿兄弟と信康・亀姫との2人だけで、康俊と瀬名姫の入れ替わりは1年後だったとする説もある。

善照院殿泉月澄清大居士(松平康俊)の墓

善照院殿泉月澄清大居士(松平康俊)の墓

【参考】上ノ郷城跡を愛する会(→link

人質として駿府にいた松平康俊は、武田氏が駿府を攻めた時に捕えられ、人質として甲斐国で監禁。

雪の降る夜に脱走したため、足の指全てを凍傷で無くしてしまう。

それを見た於大の方は「今後、自分の子は人質に出さない」と決めたという。

後に豊臣秀吉が人質を要求してきた時、家康は於大の方に断られ、結果、次男・秀康を秀吉の養子(実質的には人質)に差し出したため、三男・徳川秀忠が徳川二代将軍となっている。

 


瀬名姫の両親が自害に追い込まれ

大事な人質をまんまと家康に取り戻され、今川氏真は怒り心頭に発したのであろう。

完全に歯止めが効かなくなったようで、永禄5年(1562)、関口屋敷において瀬名姫の両親を自害させた。

「娘(瀬名姫)の夫(松平元康)が今川氏を裏切った罪」

あるいは

「娘婿に同調して今川氏を裏切る可能性がある」

というのがその理由だ。

最近の学説では、織田信長を諌めようと自害した平手政秀のように「今川氏真を諌めるための自害だった」という考え方もあるが、ともかく瀬名姫両親の自害は、夫・松平元康と無縁ではない。

そして元康は、今川氏との縁が完全に切れると、永禄6年(1563)、今川義元から貰った「元」の字を捨て、「元康」から「家康」に改名した。

総持尼寺と守護社・築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)

総持尼寺と守護社・築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)

駿府の人質生活から解放され、信康と亀姫は岡崎城へ移った。その一方で瀬名姫は一時的に軟禁生活を余儀なくされる。

それが彼女が「築山殿」と呼ばれる所以にもなっており、岡崎城から離れた「築山」(菅生郷築山)に住み、「築山殿」「築山御前」と称されるようになった(これ以前は「駿河の御前」だった)。

あるいは別の説では、家康の父・松平広忠が、水野氏が今川方から織田方に移ったため妻・於大の方を離縁したように、今川方から織田方に移った家康も瀬名姫を離縁し、息子の信康が彼女を呼び寄せて「築山」に住まわせたので「築山殿」と呼ばれるようになったともいう。

更には好色で有名な朝倉義景の側室になった後、信康に引き取られて築山に住んだから築山殿となった説なども。

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※築山の位置は、岡崎城の籠田総門付近にあり、人々が出入りするサロン(情報交換の場)になっていたとされる。そこで「軟禁状態」だったと目される

信康像(清瀧寺蔵)と「信康さん」(映画「反逆児」上映会にて)

信康像(清瀧寺蔵)と「信康さん」(映画「反逆児」上映会にて)

 


夫と姑にキレた徳姫が父・信長へ「12ヶ条の弾劾文」

元亀元年(1570年)6月、家康は、元服した信康に岡崎城を譲り、自身は浜松城へ移った。

城主になった信康は、母・築山殿を軟禁状態から解き、岡崎城内の東曲輪に入れたという。

これが大いなる悲劇の火種になった。

岡崎城には、松平家代表・於大の方(家康の実母)、今川家代表・築山殿(家康の正室)、織田家代表・徳姫(信康の正室)の3人の女性が揃ってしまったのである。

信康の妻・徳姫は、織田信長と生駒お類の長女であり、永禄10年(1567)5月27日に岡崎城へやってきていた(このとき2人は9歳)。

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ただでさえ難しい嫁姑の関係。築山殿と徳姫との溝は、日に日に深まっていく。

築山殿にとって徳姫は、宿敵・織田信長の娘であり、現代の常識から見ても好きになれるワケがない。

そして天正7年(1579年)8月、夫・信康とも仲が悪くなった徳姫は、ついに父の信長へ「徳姫12ヶ条の弾劾文」を届ける。

その内容は……。

徳姫から送られた弾劾文は、築山殿と信康親子を中傷したもので、古文書はまだ発見されていないが、復元すると次のようになるという。

①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。

②築山殿は、女子しか生んでない私の事を「役立たず」と言う。

③築山殿は、男子は妾に生ませればよいと、武田関係者の妾を用意した。

④築山殿は、浮気相手の減敬を通して武田と繋がっている。

武田勝頼は、信康を味方にし、織田・徳川滅亡後は信康を領主とし、築山殿は武田の武将・小山田と結婚させると言っている。

⑥信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれた侍女を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を裂いた。

⑦信康は、踊りが好きで、踊りが下手な者を射殺した。

⑧信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した。

⑨武田勝頼は、信康を味方にしたいと言っているので油断しないように。

⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。

⑪築山殿は、武田勝頼に「(今川義元を殺した)織田信長と(両親の自害の原因を作り、さらに今川家を滅亡させた)徳川家康を殺して欲しい」と言っている。

⑫近頃、岡崎城下で踊りが流行して、風紀が乱れているのは、城主の信康が愚公だからだ。

※「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)※2

言ってみれば

「築山殿は好色で派手」

「信康は残忍な愚公」

という愚痴であるが、信長にとっては到底無視できない箇所があった。

「信康が武田と組んで、信長や家康を殺そうとしている」

という点である。

これにブチキレた信長が「信康を殺せ」と家康に命じ、更には助命嘆願のため浜松城へ向かった築山殿も討たせたという。

あくまで家康は、信長の命令で泣く泣く妻子を殺した――これが通説である。

実際、その証拠(「築山殿謀反の誓書」※3と武田勝頼が築山殿に出した返信※4)が、築山殿の秘密の文箱から見つかったとされている。

しかし、である。

いかにもな証拠が揃っている状況が逆に怪しいことから、最近になって、

「妻子を殺そうと思ったのは家康であり、信長が承認した」

そんな説が注目を浴びている。

この説の論者は、妻子殺害のバックボーンを、浜松に連れて行ってもらえなかった岡崎の徳川家臣と、浜松の徳川家臣の分裂を治めるためとも、家康と信康の不和ともする

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