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【武田と徳川の密な関係】
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歓迎される武田家関係者
武田家の血を引く者や旧家臣は滅亡後、各地で歓迎されました。
敗れはしましたが、むしろその武勇を抱えたいとして、徳川だけでなく多くの家が探し求めたのです。
著名なところでは以下の二名が該当します。
・大久保長安
猿楽師の父を持ち、武田家のお抱えとなり、さらには徳川家に仕えて異例の大出世を遂げる。
そんな立身出世を体現した人物です。
彼の死後、不正蓄財疑惑により家は断絶。七人の子は切腹となりました。
諸大名を巻き込み、改易まで出した江戸初期の大事件であり、【大久保長安事件】として後世に知られます。
・柳沢吉保
五代将軍・徳川綱吉に側用人として仕え、県勢を振るったのが柳沢吉保。
その祖は甲斐武田氏・武川家の出身とされます。
綱吉に引き立てられ、徳川一門にしか与えられてこなかった甲府の大名にまで上り詰めました。
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異常な寵愛とされてはいますが、綱吉としては先祖由来の土地だという思いがあったのかもしれません。
柳沢吉保夫妻の墓は、恵林寺にある信玄の墓のそばにあります。
これ以外にも、武田遺臣たちの多くは再就職先を見つけました。
井伊の赤備え
大河ドラマ『どうする家康』の武田家臣は多くが赤備えを身につけています。
本来は飯富虎昌など、限られた猛者だけに与えられたトレードマークであり、誰も彼もが着用したわけではありません。
飯富虎昌は、信玄の嫡男・武田義信の失脚に伴い、傅役を務めていたことから罪に問われて自刃しました。
その後、赤備えを継いだのは、虎昌の弟あるいは甥とされる山県昌景です。
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三方ヶ原の戦いで徳川軍を恐怖のどん底に叩き落とした武田軍。
このとき別働隊を率いて暴れ回ったのが山県昌景であり、徳川家康は、目をかけていた井伊直政に赤備えを許します。
井伊に仕えた武田遺臣の中に、山県昌景の家臣がいたからです。
流れとしてはこう。
飯富虎昌
↓
山県昌景
↓
井伊直政
武田家臣の誇りを胸に【大坂の陣】に参戦していた真田信繁(幸村)も、赤備えを身につけていました。
本来の赤備えは我々である――そう高らかに宣言した勇姿は、江戸時代からずっと胸を打つものであり、さまざまな作品のモチーフとされてきました。
現代では2016年の大河ドラマ『真田丸』が印象深いものでしたね。堺雅人さん演じる幸村が赤備えを身につけ突撃する姿は実に颯爽としていた。
真田の赤備えはフィクションの中で支持され続ける一方、井伊の赤備えは現実の中でくすんでゆきます。
幕末になると、殿様である井伊直弼が【桜田門外の変】で討たれてしまいました。
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京都を守るという重責を果たすこともできなくなり、会津藩にその役目が押し付けられます。
そして維新前夜の戦場で、井伊の赤備えは時代錯誤の代名詞となりました。
家格を持ちだして威張るくせに、ろくに実践的な装備もしていない。偉そうなくせにすぐさま負けてしまう。
見た目が派手なだけに、その無様さは笑いものとされてしまったのでした。
フィクションで人気が出る武田と落ちる上杉
目線を幕末から江戸時代へ戻しましょう。
この時代は泰平の世に入り、出版文化も発達。戦国武将たちの活躍も、演劇や浮世絵として定番となりました。
甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は、その中でも“映える”人気題材です。
そうやって川中島を楽しんでいた江戸っ子の間で、上杉の人気が暴落する事件が起こります。
元禄14年(1701年)の【赤穂事件】です。
このときの米沢藩主・上杉綱憲は、吉良義央の実子であり、養子縁組で上杉家に入っていました。
赤穂事件を題材にしたフィクション作品『忠臣蔵』では、上杉綱憲が父のため援軍を送ろうとしたものの止められてしまう場面が入ります。
「なんでェ、親父が危機だってのにだらしねェなァ!」
江戸っ子はそう呆れ果て、こんな落首まで作られたのです。
景虎も今や猫にや成りにけん 長尾(謙信の実家)を引いて出(いで)もやらねば
景“虎”も、すっかり“猫”になっちまったなぁ。長いしっぽ(謙信の実家である長尾家とかけてある)を引っ張って出てこられないなんてよォ!
こうも江戸っ子に馬鹿にされてしまったことは、気の毒な話でした。
メディアが発達した江戸時代は、そのせいで人気が上下するようになったのです。
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