豊臣家

肥後国人一揆で成政が切腹! それは秀吉の政治的策略だったのか?

「やる事成す事いちいち裏目に出る時」って誰でもありますよね。

これが戦国時代になると命にも関わりまして……。

天正十五年(1587年)12月上旬に終結した【肥後国人一揆】は、ある不運な武将に死をもたらした事件です。

不運な武将とは他でもありません。

「ミスターさらさら越え」こと佐々成政です。

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成政は、信長の側近から大名に成り上がった織田家の生え抜きで、立ち位置的には前田利家と似ているかもしれません。

しかし百万石になった利家に対し成政は不遇で、本能寺の変後は、ことごとく秀吉の対抗勢力については敗北を喫し、そして今回の一件で切腹へと追い込まれました。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

肥後国人一揆は秀吉の政治的判断があった?

本能寺の変(1582年)後の成政がどれぐらい負けていたか?

というと、ざっと以下の通り。

3年連続で敗退を続け、これまでよく切腹あるいは放逐されなかったものです。

むしろ運が強いのでは?

と逆に思ってしまうほどで、実際、秀吉と直接対決となった富山の役での敗戦後は、信長二男の織田信雄に命乞いをして貰って助けられています。

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ただ、これも秀吉の温情というよりは、政治・外交上の判断があった可能性も考えられます。

以下の秀吉記事の年表にもありますように、

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当時、豊臣家にはまだ多くの敵(四国・九州・関東・東北)が残っており、実直だった佐々成政は『まだ使い道がある』と考えたのかもしれません。

実際、1587年の九州征伐後に成政は、非常に統治の難しい肥後(熊本県)の大名に任ぜられるのです。

そして、そこでやらかしてしまうのでした……。

 

成政の検地が原因だった

秀吉の業績で最も有名なものの一つに【太閤検地】があります。

田畑の面積や収穫量を調べることで、取れ高に見合った年貢を課すために行われるものですね。

現代で言えば所得税の徴収って感じでしょうか。

目的は、庶民からお金(お米)を集めることです。

秀吉は本能寺の変後あたりからこの検地を重要視していて、当然、九州征伐後も「お前ら自分のシマできっちり検地をするように!」(意訳)と命じておりました。

自身が百姓あるいは半農の足軽出身とされるだけあって、農民たちが単なるか弱い存在ではなく、平気で隠田(おんでん・領主に隠れて田んぼを耕作)することも当然知っていたのでしょう。

要は、脱税のチェックを領主たちに課したのでした。

しかし、です。

領地化したばかりの肥後国は例外的に検地の対象外としておりました。

成政に対して秀吉は、

【国人たちの所領を認め】

【3年間は検地を行うな】

という通達を出していたのです。

むろん成政も当初は従おうとしました。

しかし、これではいかんせん現実的な領国経営はままなりません。

当然ながら、成政の下にも多くの家臣団がおり、彼等に知行(土地)をあてがわねば生活できないわけです。

そして、ついに検地を断行したのが運の尽きでした。

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