豊臣家

肥後国人一揆で成政が切腹! それは秀吉の政治的策略だったのか?

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肥後国人一揆
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隈部親永くまべちかながを抑え込み、かえって国中が反発

成政の検地に対し、「約束が違うじゃないか!」とキレたのが隈府城(わいふじょう)の隈部親永(くまべちかなが)。

これを無理やり抑え込んだ成政ですが、この強引なやり方が、かえって他の国人たちの怒りに火を付けてしまいます。

そして国中で一揆が勃発!

天正十五年(1587年)7月のことでした。

国人だけでなく民衆も含めた一揆勢は隈本城(くまもとじょう)を囲み、成政は為すすべなく居城の平山城に入ったまま出られなくなります。

一揆勢の勢いは凄まじく、成政は完全に封じ込まれ、近隣の小早川隆景(筑前)や立花宗茂(筑後)らの援軍を待つことになりました。

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成政は、最終的には餓死寸前にまで追い込まれたとされます。

一揆勢が単なる農民たちだけでなく、戦闘集団の国人たちが先導していたのが大きかったのでしょう。

ちなみに、国人とは地方の小領主たちのことで、国衆とも呼ばれたりします。

大河ドラマ『おんな城主 直虎』の井伊家や『真田丸』の真田一族なんかもそうですね(真田家は後に大名へ)。

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肥後にはそんな国人が50人以上いて、九州征伐の直前は島津家の傘下に入っていましたが、その後、成政の配下扱いになっておりました。

その多くが一斉に蜂起したのですから、そりゃあ苦境に落とされますわな。。

成政の生年がはっきりしないため、一揆が起きたころ何歳だったのか、不明です。

一応、50歳頃と見られ、当時ではかなりの高齢ですから、一説には「病気だったので早く検地をしたかったのでは?」なんてことも言われます。

しかし、国人たちから見れば、そんな事情は知ったこっちゃねえ、とばかりに城を取り囲まれてしまうのでした。

 

九州の最強武将・立花宗茂が寡兵で大奮戦!

救援に差し向けられた第一陣がは、前述の通り立花宗茂です。

宗茂だけでなく、実は肥前の鍋島直茂にも救援要請が届き、7,000の兵が送られているのですが、一揆勢の待ち伏せに遭って敗北してしまいます。

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一方、宗茂の活躍は、

「西の最強武将(東は本多忠勝)」

と称されるだけあって素晴らしいものでした。

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まず宗茂は、一揆勢が、どのように佐々軍や鍋島軍を攻撃したか調べます。

攻め方を調べて、その裏を衝こうという発想です。

立花軍の兵数は800~1,200とされ、鍋島軍7,000と比べて圧倒的に少数でしたが、

・十時連貞(ととき つれさだ)

・小野鎮幸(おの しげゆき)

・由布惟信(ゆふ これのぶ)

など、配下の勇将を引き連れ、さらには宗茂弟の高橋直次も参戦しておりました。

立花軍はこうした少数の戦いでは間違いなく最強候補だ――と東京大学教授の本郷和人先生も指摘しておられましたが、実際、救援に出向いた宗茂指揮のもと一日に10度以上も交戦するなどして大いに奮戦します。

事前に調べたという一揆勢の戦い方は不明です。

が、宗茂は、単に指揮をするだけでなく、自身も戦場へ飛び出していき、それが他の将兵たちの士気を上げるという戦巧者ぶりを見せつけました。

しかし、肥後国中で一揆勢が蜂起しているだけに、立花軍だけではどうにもならないのも事実です。

結局は、筑後や肥前などの諸将がやってきて、ようやく鎮圧されることになり、天正十五年(1587年)7月に始まった一揆が終わったのは12月のことでした。

めでたしめでたし……と言いたいところですが、事の経緯を知った秀吉はどう考えたでしょう?

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