豊臣家

中国大返しは可能か?秀吉と官兵衛による10日間230kmの強行軍を考察

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中国大返し
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武田征伐を終えたばかりの織田信長に「すいませんこっちムリなんで助けてください」(超訳)と援軍のお願いをしたのです。

信長も「サルが助けを求めてくるとは珍しい。ホントにヤバいんだな」(超訳)ということで援軍の約束をしてくれましたが、同時に「早く落とさねーとどうなるかわかってるよな^^」(超訳)とも書かれていました。

この”援軍”に駆り出されたのが明智光秀だったのです。

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築いた堤防の高さは7m それが3kmに渡る?

信長から【了承】と【脅し】を受け取った秀吉は、これまた得意の土木工事を使った奇策に出ます。

堤防を作り、近くの足守川の水をせき止め、流れを変えることによって備中高松城の周りを水浸しにしました。

いわゆる”水攻め”ですね。

金に糸目をつけず兵や農民を働かせたので、工事は12日程度で完了。

さらに梅雨に入って雨が降り続き、増水した川の水は一挙に備中高松城へと押し寄せます。

これにより、備中高松城は湖に浮かぶ孤島と化してしまいました。

秀吉は周囲を高さ約7m×約3kmに及ぶ堤防を築いたとされるのですが(『川角太閤記』)、実際は300mの長さもあれば城を水没させられることが現代の研究から指摘されています。

こうして毛利の援軍が合流するのを防いだ秀吉は、降伏を待つばかり……というタイミングで起きたのが本能寺の変でした。

 

10日間で230キロも移動した!?

天正十年(1582年)6月2日、明智光秀が京都本能寺に滞在していた主君の織田信長に襲いかかりました。

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信長の遺体は見つかってはいませんが、おそらく焼け落ちる本能寺の中で焼失したのでしょう。

以降の時系列をまずは確認してみましょう。

【2日早朝】本能寺の変で信長自害

【3日夜~4日未明】秀吉が信長の死を知り、毛利側と交渉を進める

【5日】光秀に味方しそうな武将にウソの手紙を書いて時間を稼ぐ

【5~6日】高松の陣を引き上げて姫路城へ向かう

【7~9日】姫路城到着・明石へ

【9~10日】明石到着後、兵庫へ

【10~11日】兵庫を出発して尼崎・富田へ、池田恒興や高山右近らと合流

【13日】山崎の戦いで明智光秀に勝利

その道程を地図で確認すると以下のようになります。

中国大返しルート(書籍『秀吉の虚像と実像』等を基に制作)

上記の通り、

「京都から230kmも離れているのに、なんでたった1日で信長の死がわかったんだよ」

とか

「行軍早すぎじゃね?」

とか、まぁツッコミどころが満載な日程ですね。

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