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中国大返しは可能か?秀吉と官兵衛による10日間230kmの強行軍を考察

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秀吉は、間もなくやってくる信長の動向をつぶさに把握しておくため、事前に多くの情報用兵員を置いておいたと言います。それだけに凄まじい速さで情報を掴めました。

本能寺の変の黒幕説はありえないでしょう。

それでもさすがに10日間で230kmは相当な移動距離です。

これがどのくらい早いのか。ちょっと比較で考察してみましょう。

 

徳川秀忠さんは一日27キロ 兵はついてこれず

パッと思いついたのが大坂冬の陣における徳川秀忠です。

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関ヶ原の戦いで遅刻をした秀忠は、今度こそ遅れるワケにはいかず、凄まじい速度で進軍し、そして兵がついてこれず、結局、徳川家康にこっぴどく叱られております。

当時の道程とは違いますが、仮に東名高速経由での東京~京都の距離を計算してみましょう。

これだと東京~京都間は468km。

秀忠は17日間で踏破しましたので、一日27km進んだことになりますね。

秀吉は230kmを10日ですから、一日あたり平均23km。

あれ?
それほどムチャではない?って思ってしまいます。

逆に、秀忠がやりすぎだろう、と。

秀吉はこの間に戦をしたり休息もとったり一日で70km移動したとされる日もありますので、やはりいずれも驚異的なスピードといわざるをえません。

ただし、さすがに全軍この速さではなく、馬を使った者たちですね。

「日本の馬は小型馬だから、それほどの動きはできないのでは?」といった指摘も見かけますが、実際のところ相当タフだったということが在来種の木曽馬から見てとれます。

通常の歩兵は、馬と比べてかなり遅れて進み、【山崎の戦い】に間に合わなかった者もいると言います。

まぁ、そう考えた方が自然ですわな。

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秀吉黒幕説が流れるわけです

実際、長距離を歩いたことがある方はわかると思いますが、舗装されたコンクリートの道を現代人が歩くスピードは1時間で4キロがいいところです。

だいたいは3.5キロぐらいで一日10時間、約35キロぐらいが体力の限度です。

戦国当時の道路事情は、踏み鳴らされた土でしょうから、もしかしたらコンクリートよりは負担が軽いかもしれません。

また、鍛えられた兵士であれば(農作業で鍛えられた農民も含む)、現代人よりも辛抱強い可能性もあるでしょう。

しかし、それでも230kmの道のりを進んで、さらに殺し合いの合戦って……。

そりゃ、こんだけのスピードで戻ってきて、さらに本能寺の変を知った経緯がはっきり記録されていないのですから秀吉の黒幕説も出るわけですよね。

いずれにせよ明智光秀はこの直後の【山崎の戦い】に敗れ、落ち武者狩りで落命したとされています。

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なお、この中国大返しでノウハウを得た自信があったからなのか。

秀吉は、柴田勝家とぶつかった【賤ヶ岳の戦い】でも、大軍による高速行軍をやってのけ、見事に勝利を手繰り寄せます。

賤ヶ岳の勝利を決定づけたのは前田利家の戦線離脱でしたが、そもそも秀吉の仕掛けがあったからこそ。

光秀も勝家も、どうあがいても、結局は秀吉に勝てなかったようにも思えてきます。

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【参考】
国史大辞典
堀新・井上泰至『秀吉の虚像と実像』(→amazon
鈴木旭『<毛利輝元と戦国時代>歴史シミュレーション 中国大返し 毛利の追撃』(→amazon
中国大返し/wikipedia

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