秀吉は人たらしなのか

豊臣秀吉/wikipediaより引用

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秀吉が人たらしというのは本当か?史実や逸話の考察で浮かぶ意外な姿

身分の低い足軽から天下人へ。

なぜ秀吉は驚異的な出世を遂げたられたのか?

一説には「人心掌握が誰よりも抜群に得意だったから」と語られたりします。

今年の大河ドラマ『どうする家康」では露骨なまでに意地悪な姿で描かれてきましたが、本来フィクションにおける秀吉は、信長の前でも家康の前でも120%ニコニコしているものです。

そして、その心の中にあるほんの少しの闇が、老いと共に肥大化していく過程が恐ろしく、また人間の業というリアリティを感じさせるのかもしれません。

では『どうする家康』では見られない、秀吉の”人たらし”っぷりとは、いかほどのものだったのか?

そもそも本当に人たらしだったのか?

史実や関連エピソードも含めて振り返ってみましょう。

 

本当に人たらしだったのか?

豊臣秀吉は人たらしなのか。

この根本的な問いに関しては「YES」とは申し上げられません。

もちろん全面的に否定するというわけではなく、当時から「あんな奴に従えるか!」と、軽蔑的な態度を取る大名もいました。

例えば鎌倉時代からの名門武家という誇りを持つ島津家は、そう苦々しい思いを抱いていたとされます。

また「情勢を鑑みるに、もう取り入れないな」と判断したのが最上義光でした。

最上家の場合、敵対していた上杉家が石田三成と懇意であり、なかなか接触できないため、徳川家康ルートでの交渉を目指しています。

※以下は最上義光の生涯まとめ記事となります

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後世で「人たらし」とは言われても、当時、遠方にいる大名からしてみりゃ人格などわかりはしない――それが現実ですが、中には風変わりな大名もいて、実際に秀吉に会い、メロメロになった様子を手紙に記した人物がいます。

お騒がせ大名としてお馴染み、伊達政宗です。

政宗は小田原参陣で秀吉と対面し、「父上(伊達輝宗)を思い出した」と母の義姫に手紙を送るほど浮かれました。

プライベートな手紙ですから、ある程度信ぴょう性は高く、しかも政宗は、ありのまま思ったことを手紙に書き残しますから、感動したことは確かなのでしょう。

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ただし、そんな政宗も【豊臣秀次事件】を機に、豊臣政権に対して冷淡な態度を取るようになってゆきます。

豊臣秀次事件で、最上義光の娘・駒姫を含む数多くの罪なき女性や子供が殺されたのです。

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結局政宗は、秀吉の死後に徳川家康との縁談を進め、徳川政権へ急接近した筆頭大名となりました。

こうした有名な事件がありながら、それでも「秀吉は人たらし」と扱われています。

一体なぜなのか?

彼が“叩き上げ”の出自だからかもしれません。

 

成り上がりはイメージ戦略が重要

秀吉はご存知のように足軽あるいは農民の子とされる出身。

彼には【賤ヶ岳七本槍】のように、名の知れた側近や子飼いの武将が大勢いました。

自分の子供がいない代わりに、家臣を家族のように慈しみ、また配下の武将たちも秀吉を慕う様子が、漫画などでも描かれたりしますよね。

後世の残虐性はともかく、身内や近しい人には優しい――そんな秀吉と対比して見てみたいのが、再びの登場となる伊達政宗です。

彼は大変エキセントリックな性格。

親や家臣から「もっとなんとかならないのか!」と苦言を呈される程です。

しかし、伊達家は鎌倉武士にルーツのある名門であり、そのボンボンであればいくら人格が破綻していても、周囲の家臣や親族たちは暴馬・政宗を制御し、皆で支えていかねばなりません。

今ではすっかり「戦国DQN四天王」というネットスラングも定着してしまいましたが、細川忠興にせよ、島津家久島津忠恒)にせよ、名門武家には人格の破綻したボンボンが存在します。

鬼武蔵として知られるイケイケ武将の森長可(ながよし)も、織田信長から大変な寵愛を得て、無茶な行動が記録されていたりします。

彼らに共通する特徴はこんなところでしょう。

「人間的には最低最悪なんだよ……ただ、名門だし、お父上は立派な人だったしなぁ……」

「こいつは今、殿の覚えめでたくノリノリで、迂闊に注意できん……」

要は、周囲が耐え忍び、忖度するからこそ、そのワガママが許されていたんですね。

では豊臣秀吉はどうか?

彼のような成り上がりは、主君にせよ、同輩にせよ、家臣にせよ、自分を好いてもらって協力を仰がねばなりません。

時折、辛辣さが顔をのぞかせても、とにかく第一印象がよくなければ周囲の人間に足元を掬われてしまいます。

豊臣秀吉に関する逸話として、気配りを示すものが多く残されていて「信長の草履を懐に入れてあたためていた」という話はその典型例でしょう。

秀吉のような身分の者が処世術を駆使するのは当たり前の話で、まず、とにかく上司に気に入られなければなりません。

どこまで徹底してやれるか? というのは当人の才覚や努力に依りますが、性格や人格以前に「処世術を徹底せねば出世ができない」というのが実情なのです。

晩年の秀吉は一転して暴虐な性格になったと指摘されます。

権力を得て変貌してしまったのか。それとも本来の姿が出たきたのか。

真実は不明ですが、血縁や出自というブランド価値のない秀吉は、派手なパフォーマンスで人の心を掴み続けなければならない、哀しい事情がありました。

 

秀吉の人心掌握術

では、秀吉はどんな人心掌握術を行ってきたか?

具体例を見てまいりましょう。

◆対上司:金ヶ崎の戦いで殿を志願する

元亀元年(1570年)、織田信長がピンチに陥った【金ヶ崎の戦い】において、危険な殿を買って出ています。

この捨て身の行為により、信長の心を掴みました。

◆対大名:飴と鞭を使い分ける

天正18年(1590年)の【小田原征伐】では、伊達政宗を出迎え、「まるで父上のようだ」と感激させています。

強権的なようで、いざ顔を合わせたら親しみが持てる――そのギャップに政宗もすっかり参ってしまったのでしょう。

◆茶の湯ブームの創設

豊臣政権の特徴といえば、千利休と弟子たちによる「茶の湯」があります。

ただの風雅な趣味ではなく様々なトレンドもあり、利休や弟子たちが「これは逸品である」と太鼓判を押せば、たちまち高値で売れてしまう。

そんなブームが起きましたが、この流行には実は重要な意味があります。

かつて室町幕府の三代将軍・足利義満は【日明貿易】を行いました。

遣明使を派遣し、明との交易で独占的に茶器や文物を入手。

そうした輸入品を用いることこそが大名としての格式であると定義したのです。

秀吉は、こうした【日明貿易】ありきの美意識に「日本ならではの価値を見出してゆく」という画期的な作業を行いました。

茶の湯はその代表例であり、庶民も参加することができた【北野大茶会】も、そのアピールの場として開催されたのでしょう。

家柄も、先代からの家臣もいないからには、一から作り上げる必要があった秀吉――。

織田信長の家臣時代は、とにかく取り入ることが重要な課題でしたが、思いがけぬ偶然と幸運により天下が手に入れたからには、その主人に相応しい振る舞いをせねばならない。

出世街道を進むごとに、人心掌握術を研鑽させていったとも考えられます。

こうして見ると、やはり相当な頭の良さ、あるいは自己鍛錬や自己批判に耐える忍耐力も持ち合わせていたのでしょう。

しかし問題は、頂点にまで上り詰めた後でした。

豊臣政権の維持に必要な足場固めをするどころか、自ら壊すような真似をしてしまう。

先に挙げた秀次事件では、その惨状を目にした京雀たちが「これでは天下は治らない……」と嘆いたとされます。

豊臣政権が短命だったのは、後継ができないことや、家康による簒奪という要素がありますが、最たる失敗は「足場固めを盤石にできなかった」ことでしょう。

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