淀殿(茶々)

淀殿(茶々)/wikipediaより引用

豊臣家

淀殿(茶々)は豊臣家を滅ぼした悪女か否か?どうする家康北川景子

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秀吉の寵愛を受ける

好色とされる天下人・豊臣秀吉

そのもとには、花が咲き誇るように名高い武士の娘たちがひしめいていました。

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しかし、誰一人として子を為さない。

秀吉の身体に何らかの問題があったことは状況から判断できますが、ともかく武家にとって子がおらず、親族も少ないことは由々しき事態です。

ところが、です。天正16年(1588年)秋、茶々に解任の兆しが見えてきたと伝わります。

秀吉がどれだけ喜んだことか。

茶々は聚楽第から遠ざけられ、茨木城に移されると、彼女と腹の子のため淀城が建築されます。

浅井茶々は、こうして「淀」と呼ばれるようになるのです。

そのころ京雀のあいだでは、こんな噂がたちのぼっていたようです。

「あの腹の子ぉ、ほんまにあの関白やろか?」

「若いおなごがあないな爺いに満足できる思う?」

そして天正17年(1589年)2月25日――不埒極まりない落首が聚楽第の表門に貼られます。

大仏のくどく(功徳)もあれや 鎗(やり)かたな

くぎかすがいは 子だからめぐむ

大仏殿を建立した甲斐がありましたな。

刀狩りで槍や刀を徴収したおかげで、子宝に恵まれるとは。

 

さゞたへて(佐々成政が領内一揆のため切腹したこと)茶々生いしげる 内野原

今日はけいせいの香をきそいける

佐々成政は領内一揆鎮圧に失敗して切腹とか。

一方で内野原にある聚楽第では、懐妊した茶々の権勢がますます盛んだそうで。

武士の出入りを禁じられた京都の傾城(遊女)は、香を焚いているそうですよ(※武士の好色をとがめながら、若い茶々との間に子を為す秀吉への皮肉)。

秀吉の政策を揶揄しつつ、淀殿の懐妊を嘲笑う――。

ある意味、見事な作品ながら、単なるイタズラでは済まされない、凄まじく非情な措置が豊臣配下の者たちにくだされます。

当初は奉行の前田玄以が落首を処理したのですが、結局、秀吉の耳に入ってしまい、番衆17人が処刑の対象とされてしまったのです。

しかも、三日間にわたり鼻を削ぎ、耳を切り、逆さ磔という痛ましいやり方で。

心を痛めた大政所が途中で止めたため、6人は減刑されるも、それとて市中引き回しの上で斬首とされたのです。

アジール(政治力の届かない聖域)であるはずの大坂本願寺へ駆け込んだ者も許されません。

大坂天満森では63人が捕えられ、老若男女、罪があるかないかも問われぬまま、六条河原で磔とされました。

そんな暗い気分を払拭するためか、同年5月に秀吉は、聚楽第で金銀を諸大名や寺社に配布しています。

同時に、淀殿の懐妊が大々的に披露され、天正16年(1588年)5月27日、男児が産声をあげたのでした。

母と子は淀城から大坂城へうつりました。捨て子の方がよく育つとされることから、名前は「棄(捨)」。

武運にあやかって「八幡太郎」とも呼ばれたこの子は、鶴松の名で知られます。

そんな顛末を、フロイスは冷静に

「鶴松が本当に関白の子であると、信じているものはいなかった」

と記しています。

華々しい栄光と共に冷たい目線も向けられる――淀殿には、そんなゴシップネタのような評判が付き纏うのでした。

 


第一子・鶴松

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は北条氏を攻めるべく、居城の小田原城を大軍で取り囲みました(【小田原征伐】)。

陣中には淀殿の姿もありました。

秀吉は相模の地で温泉を掘らせ、淀殿も湯治を楽しんだと伝わります。

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このとき秀吉が、鶴松のことを恋しくてならない、とする心情が書状に残されています。

それは行動にも表れていて、同年11月、朝鮮からの使節を迎えた秀吉は、驚きの行動に出ます。

使節と言葉を交わすこともなく何処かへ消えると、平服に着替え、鶴松を抱いて戻ってきたのです。

朝鮮の楽士に音楽を奏でさせ、鶴松を抱く秀吉。

そんな秀吉の服におもらしをしてしまう、まだ赤ん坊の鶴松。

我が子への溺愛ぶりは微笑ましいを通り越し、傍若無人といったほうが適切でしょう。海を越え、はるばるやってきた朝鮮使節に対し、あまりに失礼です。

鶴松が病弱だったことを踏まえると、健康への配慮にも欠けている。

事実、その短い人生の中で、何度も病気にかかったという記録が出てきます。

天正19年8月5日(1591年9月22日)、わずか数え三つのとき、鶴松は淀城で世を去りました。

 

第二子・拾の誕生

秀吉は家督を甥の豊臣秀次に譲り、天正20年(1592年)、朝鮮出兵のため名護屋へ向かいました。

このときも淀殿は同行。

彼女は「淀の御前様」とか「御台様」とも呼ばれ、こうした扱いから「彼女が正室である」という根拠にされます。

先に半島へ渡っていた部隊から快進撃の報告を受けた秀吉は、自らも渡海せんとしますが、後陽成天皇も母の大政所も、必死にそれを止めます。

そうした心労も影響したのでしょうか。

天正20年7月22日(1592年8月29日)に母の大政所が聚楽第で亡くなり(享年76)、素早く弔いを済ませると、秀吉は名護屋へ戻ります。

元号が文禄へ変わったこの歳の暮れあたり、陣中の淀殿は体の異変に気づきます。

懐妊の兆しでした。

次こそは無事に育って貰わねば――。

文禄2年(1593年)、淀殿は大坂城へ戻り、8月3日になって次の男児を産みました。

名前については「お」をつけず、ただ「ひろい(拾)」と名づけるよう、秀吉から指示が出ています。

ちなみに、このときの男児は、乳母ではなく実母の淀殿が乳をふくませていたことがわかります。

そして淀殿はこのとき、たっての願いを叶えました。

非業の死を遂げた両親の供養を行なったのです。淀殿は信心深い女性でした。

 


秀次の死

拾の誕生は、政権の中枢にいる豊臣家にとって、良いことばかりではありませんでした。

後継者とされていた豊臣秀次の精神を蝕んでしまいます。

秀吉は当初、疑念払拭を心がけていたようで、秀次の娘を拾の妻にすると決めました。

将来的に豊臣家のすべてが拾へ受け継がれるとしても、秀次の家が蔑ろにされるわけではない――そんな秀吉なりの心遣いに対して、秀次は不満を隠せません。

前田利家とその妻・まつに説き伏せられ、しぶしぶ承知しています。

結局、悲劇は避けられません。

文禄4年(1595年)7月8日、秀次が高野山で切腹をしてしまったのです。

秀吉に命じられたのか、それとも絶望に陥った秀次が突発的に自害したのか、諸説ありますが、ハッキリしているのはこの一件がさらなる悲劇へ繋がってしまうことです。

同年8月2日、秀吉は、亡くなった秀次の妻妾たちを車に乗せ、三条河原へ連れてきました。

眼前には秀次の首。

その前で、彼女らは次から次へと斬首され、遺骸は大きな穴に放り込まれたのです。

地獄絵図と化した都で、それまで秀吉に対して息を潜めていた京雀たちも震撼し、こんな世は長くは続くまいと囁きあったとされます。

妻妾が大量処刑された日、京都の辻にはこんな立て札が掲げられました。

今日の狼藉甚だ以て自由なり。行末めでたき政道にあらず。あゝ因果のほど御用心心候へ。

今日の大量処刑はあまりに身勝手だ。こんなことをするなんて、ろくでもない政治だ。ああ、因果応報があると覚悟するがよい。

世の中の 不昧因果の小車や よしあしともにめぐりはてぬる

世の中の因果はめぐりくるものだ。惑わされるな。良いことも、悪いことも、めぐってくるのだ。

秀次と親しいとされた人々も事件に連座させられ、動揺する大名たちに対し、秀吉は、連署血判状、起請文を提出させます。

しかし本心では、秀吉を見限る者も多くいました。

その筆頭が出羽の戦国大名最上義光でしょう。

彼は、愛娘の駒姫を処刑されました。

奥羽の美女として名高かった駒姫は、半ば強引に秀次へ差し出されることになっていたのですが、秀次とは顔を合わせる前の話でした。それでも殺されてしまったのです。

あまりにショックだったのでしょうか。最上義光の妻は事件後ほどなくして急死し、彼自身も巻き込まれかけますが、それを執りなしたのが徳川家康でした。

もう豊臣の天下は御免だ。次の天下は、徳川家康のもとにある――そんな願いはじわじわと広がっていったことでしょう。

淀殿がこの事件を知り、恐れ慄いていたという伝説めいた記述は江戸時代からあります。

彼女が「秀次を殺せ」と秀吉に囁いたかどうか、それはわかりません。

しかし、彼女が拾を産まなければ起きなかった悲劇ではあります。

淀殿は密通して子を為した。淀殿が子を産まねば、死なずに済んだ者が多い――そんな声なき声が、どれほど彼女を苦しめたことでしょうか。

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