淀殿(茶々)

淀殿(茶々)/wikipediaより引用

豊臣家

淀殿(茶々)は豊臣家を滅ぼした悪女か否か?どうする家康北川景子

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大坂の陣

片桐且元が茨木城へ向かった翌日。

慶長19年(1614年)10月2日、大坂城から豊臣恩顧の将たちへ檄文が飛ばされました。

一旗あげたい浪人たち。

迫害されて行き場を失ったキリシタン。

純粋に豊臣への忠義を尽くしたい者たち。

集まった動機は人それぞれであり、確かに士気は高いものがありましたが、所詮は烏合の衆です。

金銀などの財力に加えて、10万人規模の兵力があり、後藤又兵衛真田信繁ら諸将もいますが、とても勝てるとは言えない状況です。

城内の意見ひとつ取ってみても、和睦派の大野治長と、主戦派の浪人が対立して、収集がつきません。

豊臣恩顧の福島正則

信長の弟であり、淀殿の叔父でもある織田有楽斎(織田長益)。

彼らが説得にあたりますが、大坂方は頑なです。

11月19日、木津川口の戦いを皮切りに、各地で戦闘が勃発。

真田信繁による【真田丸の戦い】では大坂方の奮戦が際立ちますが、それとて一時的に盛り返したに過ぎず、豊臣側が不利な大勢に変わりはありません。

キッカケは東軍が撃ち込んだイギリス製の大砲でした。

淀殿の侍女が巻き込まれて亡くなると、大坂方も震撼。

もはやこれまでか……として12月には和睦交渉が始まります。

織田有楽斎は和睦交渉において「女(淀殿)は決断に時間がかかる」と弁明しています。それだけ淀殿の権限が大きかったのでしょう。

講和条件は、二案ありました。

・淀殿を人質とする

・大坂城の城割り(城としての防衛機構を破壊する)

結果的に後者が選ばれるのですが、認識の差もありました。

大坂城の本丸だけ残し、城塞としての機能を奪うことを意図していた家康に対し、大坂方は、あくまで象徴として儀礼的なものだと甘く見ていたのです。

 


大坂城の炎に消える

あけて慶長20年(1615年)、織田有楽斎が「大坂城を退去したい」と再三徳川方に訴えてきました。

彼なりに不穏な気配を察知、淀殿たちを説得していたのに、事態が一向に改善しない。

むろん、そんなことを聞かされた家康は、より一層警戒心を強めるしかありません。

大坂方は初(常高院)を使者として徳川へ遣わしますが、彼女が大坂に持ち帰った返答は「決別」でした。

もはや開戦は不可避であり、大坂方はあわてて再戦の準備に入ります。

そんな状況を見ながら、城を去っていった織田有楽斎。

大坂夏の陣】の始まりです。

裸城と化していた大坂城では防御力に頼ることはできず、城外で戦う羽目に陥ると、いくら真田信繁ら一部の将兵たちが勇戦しようと、局所的な戦闘すぎません。

そして5月8日、大坂城内で火災が発生します。

初(常高院)の一行が脱出している最中、淀殿は、秀頼や千姫らと共に山里郭の糒蔵(ほしいぐら)にいました。

淀殿は、千姫の振袖を膝の下に敷き、逃げられぬようにしていました。

そのとき――

「秀頼様! 秀頼様ぁ!」

と、千姫付きの侍女が叫びます。

『我が子が自害したのか!』と動揺した淀殿が立ち上がったそのとき、侍女は千姫の手をとり逃げ出しました。

その機転により、千姫は逃げ延びることができたのでした。

もはやこれまでか――『大坂物語』にある淀殿の言葉を意訳してみましょう。

私は太閤の妻となり、寵愛も浅からず、他の人たちはそうではないのに前世の契りもあったのか、二人の若君をさずかった。

八幡太郎は三歳で亡くなった。

けれども秀頼は仏の加護もあったのか、いままでつつがなく生きてこられた。

一度は天下の政道もとりたいと思っていたものの、この世には神も仏もないのか。

おのれ両御所(家康・秀忠)め。

不甲斐なき浪人どもがうらめしい。

これを聞いた大野治長は、こう返したといいます。

「愚かしいことをおっしゃりますな。両御所を敵に回して天下を争うのであれば、御覚悟はあられたことでしょう」

そう言い、念仏を唱えると、介錯をしました。

燃え盛る大坂城の中、淀殿と秀頼の親子、それに殉じた大野治長ら家臣、大蔵卿局ら侍女は命を落としたのです。

淀殿の最期の言葉は、あくまで物語上のものです。

しかし、そう言ってもおかしくないと当時から思われていたのでしょう。

 

女性城主なき江戸時代へ

息子の秀頼、そして大坂城と共に散ってしまった――淀殿の顛末について、伊達政宗は辛辣にこう振り返っています。

今月六日と七日に大坂で戦があった。

今回は大坂はことごとく敗れた。

八日朝までには秀頼とおふくろが焼け残った蔵に入って、腹を切ったとか。

おふくろも大口を叩いていたくせに、口ほどもなく、無駄死にをしたものだ。

オレの言うとおりにしておけば死ななかっただろう!

そう得意げに書き記す政宗の姿が見えるようではあります。

彼は乱世を生き延び、決断が遅れたばかりに秀吉に睨まれ、命すら落としかねないほどの目に遭いました。

早め早めに手を打つ重要性を、誰よりも身に沁みて知っていた人物です。

淀殿の破滅は、日本史上において、実質的な女性家長という存在も終わらせました。

江戸時代に入ると、女性の地位と発言力は低下。

奥を守る別の権力として、男性側の決断には関わることのない体制が敷かれてゆきます。

なぜそうなってしまったのか。

江戸時代、徳川家康林羅山を重用し、儒教の教えを徹底させました。

方広寺鐘銘を解読し、見咎めた一人がこの羅山です。

儒教の生まれた中国では、皇帝が龍、皇后が鳳を司ります。将軍のおわす柳営と、御台のいる大奥も、時代が降るにつれ厳格に分かれてゆきました。

かような龍鳳分かれる江戸時代を迎えて、淀殿は悪女としてすっかり貶められ、秀吉の失策が『太閤記』の痛快なストーリ展開で消されてゆく一方、彼女の悪名ばかりが高まります。

他の男と戯れる淫らな淀殿。

秀次を消せと囁く淀殿。

北政所を追い出す淀殿。

そして秀頼を溺愛し、甘やかした淀殿。

明治時代を迎え、徳川贔屓の風潮が消えていっても、彼女の存在は悪女とされ続けました。

そうした過去のキャラクター設定とは決別し、むしろ“世の中に流されてしまう姫君”として描いた大河ドラマが2016年の『真田丸』です。

あどけなく、悪意がないのに、物事を悪化させてしまう――そんな淀殿の姿は、かえって物悲しいもので。

悪女という性根の悪さはありません。

一方で2023年の“シン・大河“こと『どうする家康』では、淀殿を悪女路線へと回帰させるようです。

母のお市を救わなかった家康を恨み、彼に対抗して「天下を取る」と子役の時点で宣言するだけでなく、妖艶な笑みを浮かべながら秀吉に接近させていました。

フィクションにつっこむのも野暮ですが、あまりにも時代錯誤な描き方であり、せめて現時点での問題点だけでも箇条書きにしておきたいと思います。

・家康が市を救えなかったとしても仕方のない話であろう

・そもそも家康と市の間に恋愛関係など成立しない

・恨むにせよ、なぜ手を下した秀吉ではなく、家康なのか?

・秀吉は庇護した時点で茶々に目をつけていたとは考えにくい

・茶々はまるで自分が男子を産み、その男子が成人するとわかっているような口ぶりである

・斬新だと喧伝しながら、今では古い淀殿悪女路線に回帰するとはどういうことだろうか?

同じく日本史を代表する悪女枠には北条政子もいます。

彼女は2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場、最新の研究成果と近年のジェンダーを反映させた、非常に秀逸な人物像で描かれました。

なぜ北条政子は時代によってこうも描き方が違う?尼将軍の評価の変遷

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新たな淀殿像については、来年以降の作品に期待することにしましょう。

美人女優が演じ、悪辣さや愚かさを見せるだけというのは、あまりにも時代遅れではないでしょうか。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
福田千鶴『淀殿』(→amazon
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』(→amazon
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon

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