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【増田長盛】
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大和国郡山城20万石を所領とする
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が、不可解な死を遂げました。
まだ若く、豊臣一族にとっては貴重な親族。そんな一門の貴公子が、自ら命を絶ったようにすら思える死です。
同年6月、その豊臣秀保が有していた大和国郡山城20万石の所領は、増田長盛に与えられました。
しかし、豊臣政権にまたも激震が走ります。
今度は秀保の実兄である豊臣秀次が、高野山で自刃したのです。
豊臣一門の秀次は秀吉の後継者とされ、関白職を譲られていました。
秀吉の実子誕生でその地位が揺らいだと思ったのか、突如命を絶つと、激怒した秀吉は、秀次妻子の大量処刑を命じました。
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【秀次事件】が起きたとき、長盛は秀次側の糾弾にまわっています。
一方で家康は、糾弾された側の救済に回りました。
その中には伊達政宗や細川忠興、最上義光らが含まれ、ますます諸侯の心情は徳川に傾いていったのは明らか。
しかも、和睦が進められていた朝鮮との交渉は決裂してしまい、中断していた半島への出兵が、またしても俎上にのぼります。
そして始まったのが【慶長の役】。
長盛は、慶長4年(1599年)の総攻撃の大将として、福島正則・石田三成とともに名があげられていました。
しかし、その前年の慶長3年(1598年)に秀吉が没し、実現はしてしません。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、五大老に任じられた徳川家康は、勝手に姻戚関係を結ぶなど、違約と増長を繰り返します。
五奉行にとっては許し難いものであり、その一人である増田長盛も、石田三成らと共に家康阻止に動きます。
慶長5年(1600年)に他の五奉行と共に家康への弾劾状を作成。
さらには五大老の毛利輝元や宇喜多秀家と連絡を取り合いました。外交と取次を得意とした長盛の本領発揮といえましょう。
では、増田長盛は徹底して豊臣に忠義を尽くしたのか?
となると、ハッキリとそうとは言い切れません。
三成と大谷吉継の謀議を家康に報告するといった、東西を天秤にかける動きが見られます。
運命の年となった慶長5年(1600年)。
上杉家・直江兼続の【直江状】を受け、徳川家康が会津へ出立すると、その背後を突くようにして、石田三成、毛利輝元らが立ち上がります。
このとき三成以外の五奉行はどう動いたか?
長束正家は西軍に参加し、南宮山に陣を敷いています。
一方、浅野長政は東軍につく。
前田玄以はあくまで秀頼を守ると主張し、大坂城に留まりました。
増田長盛も大坂城にいて、東軍と西軍の間で様子を見ている状態です。
そして、その結末は……。
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