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【島左近】
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石田三成が「三顧の礼」で向かえる
在野の島左近には、幾度となく仕官の声がかかったとされます。
しかし、いずれの誘いにも応じず。
そんな彼の心を動かした武将がいました。
豊臣政権でトップクラスの官吏武将である石田三成――石高4万石に過ぎない三成は、半分の2万石を差し出してまで、左近を召し抱えたいとのこと。
君臣禄を分かつ
そんな感動的な逸話として後世に伝えられますね。
実際のところ、仕官を誘った頃の三成は佐和山城を有しており、石高はもっと高かったという指摘もありますが、ともかく島左近の心が動かされたことは確かです。
誠意あふれる人物であり、家臣に声を掛ける際には高待遇を持ちかけたとされる三成。
清廉潔白で慈悲深い人柄は領民から慕われ、江戸時代においてもひそかに語られ続けてきた――島左近とのエピソードも、そんな三成伝説の一端なのでしょう。
石田三成の家臣として島左近が侍る、そのような姿が確認できるのは天正18年(1590年)【小田原攻め】あたりと目されています。
と、一気に先へ進まず、ここで一呼吸置いて考えたいことがあります。
左近の出仕です。
やはりドラマチックな主従の出会いには注意が必要であり、特にこうした逸話は、テンプレートが適用されがち。
具体的に言えば『三国志演義』の劉備と諸葛亮、「三顧の礼」で知られる逸話です。
いかにも劉備と諸葛亮を彷彿とさせるもので、三成と左近という君臣も、古くから水魚の交わりとして認識されていたのでしょう。
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ではなぜ三成は、高待遇で島左近を求めたのか?
豊臣秀吉は、武力より経済力や交渉力といった技能を重視していました。
石田三成がその典型例であり、自らの武力には自信がなかったとしても無理のないところです。
しかしだからこそ、自身の身辺を守るため、武に長けた家臣を求めてもおかしくない。そういった意味で島左近は優れていたとも考えられます。
関ヶ原で奮戦の末に散る
石田家に仕えてからは、三成と共に各地の戦場を駆け抜けた島左近。
しかし、その名に比して武功が目立たないのも、主君である三成の立場からして仕方ないのかもしれません。
島左近の名が最も輝くのは慶長5年(1600年)、そのまんま【関ヶ原の戦い】です。
西軍は、前哨戦となる【杭瀬川の戦い】で快勝するのですが、この戦いで堂々と不意打ちをかけ、勝利に導く左近の姿は爽快感にあふれています。
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ただし、その直後に提案した渾身の「夜襲案」は退けられてしまい、どこかチグハグなまま迎えた関ヶ原本戦――正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りで西軍内に動揺が走る中、島左近は三成の陣で奮戦を続けます。
しかし、裏切りは小早川で終わらず、そもそも、その小早川を食い止めるために配置されていたとも考えられる
・朽木元綱
・赤座直保
・小川祐忠
・脇坂安治
の四人までもが東軍についてしまいました。
さすがの島左近もこれには落胆を隠せなかったでしょう。
最期は、その身を銃弾に貫かれたとも、戸川達安に討たれたとも、諸説伝わります。享年61。
島左近の激闘ぶりを見た東軍は、こう振り返ったといいます。
「思いだすだけでまことに身の毛もよだつ……汗がにじんでしまう」
島左近とは何者か?
そう語り合うと、みなそれぞれ特徴が一致しない。
恐怖のあまりマトモに見ることすらできなかったのだろう、と結論づけられたとか。
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