島左近

島左近/wikipediaより引用

豊臣家

島左近が関ヶ原に散る~三成にはもったいない勇将とされたのは本当?

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石田三成が「三顧の礼」で向かえる

在野の島左近には、幾度となく仕官の声がかかったとされます。

しかし、いずれの誘いにも応じず。

そんな彼の心を動かした武将がいました。

豊臣政権でトップクラスの官吏武将である石田三成――石高4万石に過ぎない三成は、半分の2万石を差し出してまで、左近を召し抱えたいとのこと。

君臣禄を分かつ

そんな感動的な逸話として後世に伝えられますね。

実際のところ、仕官を誘った頃の三成は佐和山城を有しており、石高はもっと高かったという指摘もありますが、ともかく島左近の心が動かされたことは確かです。

誠意あふれる人物であり、家臣に声を掛ける際には高待遇を持ちかけたとされる三成。

清廉潔白で慈悲深い人柄は領民から慕われ、江戸時代においてもひそかに語られ続けてきた――島左近とのエピソードも、そんな三成伝説の一端なのでしょう。

石田三成の家臣として島左近が侍る、そのような姿が確認できるのは天正18年(1590年)【小田原攻め】あたりと目されています。

と、一気に先へ進まず、ここで一呼吸置いて考えたいことがあります。

左近の出仕です。

やはりドラマチックな主従の出会いには注意が必要であり、特にこうした逸話は、テンプレートが適用されがち。

具体的に言えば『三国志演義』の劉備と諸葛亮、「三顧の礼」で知られる逸話です。

いかにも劉備と諸葛亮を彷彿とさせるもので、三成と左近という君臣も、古くから水魚の交わりとして認識されていたのでしょう。

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ではなぜ三成は、高待遇で島左近を求めたのか?

豊臣秀吉は、武力より経済力や交渉力といった技能を重視していました。

石田三成がその典型例であり、自らの武力には自信がなかったとしても無理のないところです。

しかしだからこそ、自身の身辺を守るため、武に長けた家臣を求めてもおかしくない。そういった意味で島左近は優れていたとも考えられます。

 

関ヶ原で奮戦の末に散る

石田家に仕えてからは、三成と共に各地の戦場を駆け抜けた島左近。

しかし、その名に比して武功が目立たないのも、主君である三成の立場からして仕方ないのかもしれません。

島左近の名が最も輝くのは慶長5年(1600年)、そのまんま【関ヶ原の戦い】です。

西軍は、前哨戦となる【杭瀬川の戦い】で快勝するのですが、この戦いで堂々と不意打ちをかけ、勝利に導く左近の姿は爽快感にあふれています。

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ただし、その直後に提案した渾身の「夜襲案」は退けられてしまい、どこかチグハグなまま迎えた関ヶ原本戦――正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りで西軍内に動揺が走る中、島左近は三成の陣で奮戦を続けます。

しかし、裏切りは小早川で終わらず、そもそも、その小早川を食い止めるために配置されていたとも考えられる

・朽木元綱
・赤座直保
・小川祐忠
・脇坂安治

の四人までもが東軍についてしまいました。

さすがの島左近もこれには落胆を隠せなかったでしょう。

最期は、その身を銃弾に貫かれたとも、戸川達安に討たれたとも、諸説伝わります。享年61。

島左近の激闘ぶりを見た東軍は、こう振り返ったといいます。

「思いだすだけでまことに身の毛もよだつ……汗がにじんでしまう」

島左近とは何者か?

そう語り合うと、みなそれぞれ特徴が一致しない。

恐怖のあまりマトモに見ることすらできなかったのだろう、と結論づけられたとか。

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