前田玄以

前田玄以/wikipediaより引用

豊臣家

豊臣五奉行・前田玄以は京都対策のプロ~秀吉の関白就任でも暗躍する

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前田玄以
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五奉行となり家康に警戒

慶長3年(1598年)――秀吉は死の直前に豊臣政権の政務を担う【五奉行】を任じ、前田玄以もその一人に選ばれました。

以下の五名です。

玄以は台頭する【五大老】の徳川家康に対し、警戒心を強めます。

家康は諸大名に対し、勝手に領地の加増を行い始めたのですが、それは非常に危険な行為でした。

日本史には、領地の管理をすることで、なし崩し的に政権移行が成立するという特徴があります。

源頼朝は鎌倉に本拠を置き、坂東武者たちの領地を管理し始めたことから幕府として成立し、東国政権が樹立。

吾妻鏡』を読み、頼朝の手腕を参照にしていた家康は、朝廷を背景にした西国政権の豊臣に一石を投じたのです。

その狙いを見逃す玄以ではありません。

慶長5年(1600年)、上杉家の直江兼続による【直江状】を受け取った家康が【会津征伐】を推し進めると、これを阻止しようと考えた玄以は……残念ながら、現実的に武力が足りない。

知恵はある。朝廷との伝手もある。しかし、あまりにも武が頼りない。

五奉行は、能力以前に、与えられている軍事力があまりにも低かった。

そうは言っても、家康が動けば、事態は一気に動き始めます。

いざ関ヶ原の戦いへ。

西軍の実質的総大将として蜂起した石田三成ですが、数千という兵力では軍事力不足が否めず、実際は毛利輝元の大軍勢頼りとなります。

三成が挙兵をすると、長束正家は西軍に参加し、南宮山に陣を敷きました。

増田長盛は、東軍と西軍の間で様子見。

浅野長政は、東軍につきました。

そんな中、前田玄以は?

 

関ヶ原では西軍か東軍か?

前田玄以は、あくまで「秀頼を守る」と主張し、大坂城にとどまりました。

東軍には敵対していない。されど協力的でもない。

非常に曖昧な立場で、そのまま終戦を迎えます。

結果、関ヶ原の戦いは東軍が勝利して終わり、西軍の石田三成、長束正家、増田長盛は処断されました。

浅野長政は東軍として所領を安堵されていますが、では玄以は……というと最終的には中立を認められ、丹羽亀山5万石を許されています。

なかなか複雑な処断でした。

実は、玄以の子・前田茂勝は西軍の将であり、丹後田辺城の細川幽斎を連行していました。

ただし、捕らえた幽斎を害することはなく、戦闘も起きていない。

玄以が寛大な処置を受けられた一因として、幽斎の子である細川忠興のとりなしが挙げられます。父が害されなかったことで玄以に感謝し、家康に救済を進言したというのです。

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そして慶長7年(1602年)、玄以は豊臣の滅亡を見ることはなく、その生涯を終えました。

天文8年(1539年)生まれが正しければ、享年64。

当時としては長寿だったほうでしょう。

月岡芳年の描いた前田玄以/wikipediaより引用

 

実はキリシタンだった?

前田玄以の子はキリシタンが多い。

僧侶出身だけに、当初はクリスチャンを嫌っていた玄以ですが、堕落した僧侶よりはマシだと理解し、ひそかに保護したと伝えられています。

そんな父の姿勢を見て、子は深く理解を示したのでしょう。

長男・前田秀以(ひでもち / 秀俊、利勝とも)は、パウロという洗礼名が伝わっています。弟・茂勝に家督を譲り、父に先立つ慶長6年(1601年)に亡くなったとされます。

次男の前田正勝は千石を与えられ、慶長13年(1613年)に没しました。

父の死後、家督を継いだ前田茂勝は精神状態が悪化。

洗礼名コンスタンチノと伝わる彼は【禁教政策】に苦悩していたのかもしれません。

そして放蕩三昧を送る暗君と化してしまい、改易に追い込まれるのですが、その後の茂勝は敬虔なクリスチャンとして余生を過ごし、元和7年(1621年)に没しています。

五奉行は、石田三成の資料が突出して多く、他の四人は【関ヶ原の戦い】ですら行動不明な点が多いとされます。

大河ドラマ『どうする家康』では、ほとんど出番のないまま「前田玄以」という名前も認知されずに終わっています。

知恵者であり、秀吉の強引な朝廷工作に携わる一方で、色欲のない潔白な人物と評された前田玄以。

地味な五奉行の一人だけに、正当な評価が広がることを願いたくなる武将です。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
渡邉大門『豊臣五奉行と家康』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon
渡邉大門『清須会議』(→amazon
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon
本郷和人『日本史のツボ』(→amazon
本郷和人『日本史を疑え』(→amazon
本郷和人『日本史の法則』(→amazon

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