肥後国人一揆

肥後国人一揆、当事者の佐々成政(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

戦国末期の肥後国人一揆|成政が切腹に追い込まれたのは秀吉の策略か

2024/12/04

「やる事成す事いちいち裏目に出る時」って誰でもありますよね。

これが戦国時代になると命にも関わり、天正十五年(1587年)12月5に終結した【肥後国人一揆】は、ある不運な武将に死をもたらします。

“ミスターさらさら越え”こと佐々成政です。

成政は、信長の側近から大名に成り上がった織田家の生え抜きで、立ち位置的には前田利家と似ているかもしれません。

しかし百万石になった利家に対し、成政は不遇の日々。

本能寺の変後は、ことごとく豊臣秀吉の対抗勢力については敗北を喫し、ついには今回の一件で切腹へと追い込まれます。

佐々成政/wikipediaより引用

その経緯を見て参りましょう。

※肥後国人一揆の終結日は、国史大辞典において「和仁城が陥落した12月5日」とされ、本記事もそこに準拠しています

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肥後国人一揆は秀吉の政治的判断があった?

本能寺の変(1582年)後、佐々成政はどれぐらい負けていたか?

というと、ざっと以下の通り。

①1583年
賤ヶ岳の戦い
豊臣秀吉vs柴田勝家→敗北

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②1584年
小牧・長久手の戦い
豊臣秀吉vs織田信雄・徳川家康→和睦

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③1585年
富山の役
豊臣秀吉vs佐々成政→敗北

3年連続で敗退を続け、ここまでよく切腹(あるいは放逐)されなかったな……というものです。

むしろ運が強い。

と逆に思ってしまうほどで、実際、秀吉と直接対決となった富山の役での敗戦後は、織田信長の二男・織田信雄に命乞いをして貰って助けられています。

織田信雄/wikipediaより引用

ただ、これも秀吉の温情というよりは、政治・外交上の判断があった可能性も考えられます。

当時、豊臣家にはまだ多くの敵(四国・九州・関東・東北)が残っており、実直だった佐々成政は『まだ使い道がある』と考えたのかもしれません。

実際、1587年の九州征伐後に成政は、非常に統治の難しい肥後(熊本県)の大名に任ぜられるのです。

そして、そこでやらかしてしまうのでした……。

 


成政の検地が原因だった

秀吉の業績で最も有名なものの一つに【太閤検地】があります。

田畑の面積や収穫量を調べることで、取れ高に見合った年貢を課すために行われるものですね。

現代で言えば所得税の徴収って感じでしょうか。

目的は、庶民からお金(お米)を集めることです。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

秀吉は本能寺の変後あたりからこの検地を重要視していて、当然、九州征伐後も「お前ら自分のシマできっちり検地をするように!」(意訳)と命じておりました。

自身が百姓あるいは半農の足軽出身とされるだけあって、農民たちが単なるか弱い存在ではなく、平気で隠田(おんでん・領主に隠れて田んぼを耕作)することも当然知っていたのでしょう。

要は、脱税のチェックを領主たちに課したのでした。

しかし、です。

領地化したばかりの肥後国は例外的に検地の対象外としておりました。

成政に対して秀吉は、

【国人たちの所領を認め】

【3年間は検地を行うな】

という通達を出していたのです。

むろん成政も当初は従おうとしました。

しかし、これではいかんせん現実的な領国経営はままなりません。

当然ながら、成政の下にも多くの家臣団がおり、彼等に知行(土地)をあてがわねば生活できないわけです。

そして、ついに検地を断行したのが運の尽きでした。

 

隈部親永くまべちかながを抑え込み、かえって国中が反発

成政の検地に対し、「約束が違うじゃないか!」とキレたのが隈府城(わいふじょう)の隈部親永(くまべちかなが)。

これを無理やり抑え込んだ成政ですが、この強引なやり方が、かえって他の国人たちの怒りに火を付けてしまいます。

そして国中で一揆が勃発!

天正十五年(1587年)7月のことでした。

国人だけでなく民衆も含めた一揆勢は隈本城(くまもとじょう)を囲み、成政は為すすべなく居城の平山城に入ったまま出られなくなります。

一揆勢の勢いは凄まじく、成政は完全に封じ込まれ、近隣の小早川隆景(筑前)や立花宗茂(筑後)らの援軍を待つことになりました。

小早川隆景/wikipediaより引用

成政は、最終的には餓死寸前にまで追い込まれたとされます。

一揆勢が単なる農民たちだけでなく、戦闘集団の国人たちが先導していたのが大きかったのでしょう。

ちなみに、国人とは地方の小領主たちのことで、国衆とも呼ばれたりします。

大河ドラマ『おんな城主 直虎』の井伊家や『真田丸』の真田一族なんかで一気に知れ渡りましたよね(真田家は後に大名へ)。

肥後にはそんな国人が50人以上いて、九州征伐の直前は島津家の傘下に入っていましたが、その後、成政の配下扱いになっておりました。

その多くが一斉に蜂起したのですから、そりゃあ苦境に落とされるわけで……。

成政の生年がはっきりしないため、一揆が起きたころ何歳だったのか、不明です。

一応、50歳頃と見られ、当時ではかなりの高齢ですから、一説には「病気だったので早く検地をしたかったのでは?」なんてことも言われます。

しかし、国人たちから見れば、そんな事情は知ったこっちゃねえ、とばかりに城を取り囲まれてしまうのでした。

 

九州の最強武将・立花宗茂が寡兵で大奮戦!

救援に差し向けられた第一陣は、前述の通り立花宗茂です。

宗茂だけでなく、実は肥前の鍋島直茂にも救援要請が届き、7,000の兵が送られているのですが、一揆勢の待ち伏せに遭って敗北してしまいます。

一方、宗茂の活躍は、

「西の最強武将(東は本多忠勝)」

と称されるだけあって素晴らしいものでした。

絵・小久ヒロ

まず宗茂は、一揆勢が、どのように佐々軍や鍋島軍を攻撃したか調べます。

攻め方を調べて、その裏を衝こうという発想です。

立花軍の兵数は800~1,200とされ、鍋島軍7,000と比べて圧倒的に少数でしたが、

・十時連貞(ととき つれさだ)

・小野鎮幸(おの しげゆき)

・由布惟信(ゆふ これのぶ)

など、配下の勇将を引き連れ、さらには宗茂の弟・高橋直次も参戦しておりました。

立花軍はこうした少数の戦いでは間違いなく最強候補だ――と東京大学教授の本郷和人先生もご著書の中で指摘しておられましたが、実際、救援に出向いた宗茂指揮のもと一日に10度以上も交戦するなどして大いに奮戦します。

宗茂は、単に指揮をするだけでなく、自身も戦場へ飛び出していき、それが他の将兵たちの士気を上げるという戦巧者ぶりを見せつけました。

しかし肥後国中で一揆勢が蜂起しているだけに、立花軍だけではどうにもならないのも事実です。

結局、筑後や肥前などの諸将がやってきて、ようやく鎮圧されることになり、天正十五年(1587年)7月に始まった一揆が終わったのは12月のことでした。

めでたしめでたし……と言いたいところですが、事の経緯を知った秀吉はどう考えたでしょう?

 


成政も国人も秀吉の罠にかかった!?

このころの秀吉は、既に唐入り(文禄・慶長の役1592年 – 1598年)を検討し始めていた頃です。

大陸に渡るとすれば九州は最前線。

しかし肥後は国人の勢力が強く、このまま落ち着かない状態で大陸や半島に渡り、背後で蜂起されたらたまったもんじゃありません。

一方、佐々成政は、幾度も秀吉と戦い、これまた面倒な存在です。

信長側近というエリートの出でもあり、天下人の秀吉に対して横柄なところもあったのでしょう。

そこで【検地をするな】という厳しい条件を成政に課し、やかましい国人たちがいる土地を治めさせたらどうなるか?

成政と国人をぶつけて両方潰れれば……。

そんな秀吉の思惑通り一揆が起きたわけです。

一揆の制圧後、秀吉は蜂起した国人たちも整理し、肥後の領地化をスムーズに進めるため、今度は子飼いの加藤清正と小西行長を入れています。

彼等は文禄・慶長の役で最前線に飛び出ていった者たち。

おそろしいほどの秀吉政治力が発揮されたと見る方が自然でありましょう。

 

恵瓊が助命を願い出るも……

佐々成政は、その後、尼崎で切腹を命じられました。

一応、安国寺恵瓊が助命を願い出てくれたんですが、ここまできて秀吉が言うことを聞くはずもなく、成政は命を落としたのでした。

享年53(推定)。

さらさら越えのときといい、肥後国人一揆のことといい。

秀吉の卓越すぎる政治力に対し、成政はあまりに要領が悪いと感じるのは私だけでしょうか。

【さらさら越え】までして徳川家康へ会いに行ったときも、すでに大軍を引いて時間が経過しているのです。

そこから軍を起こすことが現実的にどうなのか。

素直なことは長所ですし武士として劣っていたわけでもなく、むしろ武将としての矜持を感じるのですが、それだけに政治外交センスのなさだけが余計に惜しまれます。

そして立花宗茂のカッコよさだけが目立ったという……。

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【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
江宮隆之『立花宗茂 「義」という生き方 (新人物文庫) 』(→amazon
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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