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【淀殿(茶々)】
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大坂の陣
片桐且元が茨木城へ向かった翌日。
慶長19年(1614年)10月2日、大坂城から豊臣恩顧の将たちへ檄文が飛ばされました。
一旗あげたい浪人たち。
迫害されて行き場を失ったキリシタン。
純粋に豊臣への忠義を尽くしたい者たち。
集まった動機は人それぞれであり、確かに士気は高いものがありましたが、所詮は烏合の衆です。
金銀などの財力に加えて、10万人規模の兵力があり、後藤又兵衛や真田信繁ら諸将もいますが、とても勝てるとは言えない状況です。
城内の意見ひとつ取ってみても、和睦派の大野治長と、主戦派の浪人が対立して、収集がつきません。
豊臣恩顧の福島正則。
彼らが説得にあたりますが、大坂方は頑なです。
11月19日、木津川口の戦いを皮切りに、各地で戦闘が勃発。
真田信繁による【真田丸の戦い】では大坂方の奮戦が際立ちますが、それとて一時的に盛り返したに過ぎず、豊臣側が不利な大勢に変わりはありません。
キッカケは東軍が撃ち込んだイギリス製の大砲でした。
淀殿の侍女が巻き込まれて亡くなると、大坂方も震撼。
もはやこれまでか……として12月には和睦交渉が始まります。
織田有楽斎は和睦交渉において「女(淀殿)は決断に時間がかかる」と弁明しています。それだけ淀殿の権限が大きかったのでしょう。
講和条件は、二案ありました。
・淀殿を人質とする
・大坂城の城割り(城としての防衛機構を破壊する)
結果的に後者が選ばれるのですが、認識の差もありました。
大坂城の本丸だけ残し、城塞としての機能を奪うことを意図していた家康に対し、大坂方は、あくまで象徴として儀礼的なものだと甘く見ていたのです。
大坂城の炎に消える
あけて慶長20年(1615年)、織田有楽斎が「大坂城を退去したい」と再三徳川方に訴えてきました。
彼なりに不穏な気配を察知、淀殿たちを説得していたのに、事態が一向に改善しない。
むろん、そんなことを聞かされた家康は、より一層警戒心を強めるしかありません。
大坂方は初(常高院)を使者として徳川へ遣わしますが、彼女が大坂に持ち帰った返答は「決別」でした。
もはや開戦は不可避であり、大坂方はあわてて再戦の準備に入ります。
そんな状況を見ながら、城を去っていった織田有楽斎。
【大坂夏の陣】の始まりです。
裸城と化していた大坂城では防御力に頼ることはできず、城外で戦う羽目に陥ると、いくら真田信繁ら一部の将兵たちが勇戦しようと、局所的な戦闘すぎません。
そして5月8日、大坂城内で火災が発生します。
初(常高院)の一行が脱出している最中、淀殿は、秀頼や千姫らと共に山里郭の糒蔵(ほしいぐら)にいました。
淀殿は、千姫の振袖を膝の下に敷き、逃げられぬようにしていました。
そのとき――
「秀頼様! 秀頼様ぁ!」
と、千姫付きの侍女が叫びます。
『我が子が自害したのか!』と動揺した淀殿が立ち上がったそのとき、侍女は千姫の手をとり逃げ出しました。
その機転により、千姫は逃げ延びることができたのでした。
もはやこれまでか――『大坂物語』にある淀殿の言葉を意訳してみましょう。
私は太閤の妻となり、寵愛も浅からず、他の人たちはそうではないのに前世の契りもあったのか、二人の若君をさずかった。
八幡太郎は三歳で亡くなった。
けれども秀頼は仏の加護もあったのか、いままでつつがなく生きてこられた。
一度は天下の政道もとりたいと思っていたものの、この世には神も仏もないのか。
おのれ両御所(家康・秀忠)め。
不甲斐なき浪人どもがうらめしい。
これを聞いた大野治長は、こう返したといいます。
「愚かしいことをおっしゃりますな。両御所を敵に回して天下を争うのであれば、御覚悟はあられたことでしょう」
そう言い、念仏を唱えると、介錯をしました。
燃え盛る大坂城の中、淀殿と秀頼の親子、それに殉じた大野治長ら家臣、大蔵卿局ら侍女は命を落としたのです。
淀殿の最期の言葉は、あくまで物語上のものです。
しかし、そう言ってもおかしくないと当時から思われていたのでしょう。
女性城主なき江戸時代へ
息子の秀頼、そして大坂城と共に散ってしまった――淀殿の顛末について、伊達政宗は辛辣にこう振り返っています。
今月六日と七日に大坂で戦があった。
今回は大坂はことごとく敗れた。
八日朝までには秀頼とおふくろが焼け残った蔵に入って、腹を切ったとか。
おふくろも大口を叩いていたくせに、口ほどもなく、無駄死にをしたものだ。
オレの言うとおりにしておけば死ななかっただろう!
そう得意げに書き記す政宗の姿が見えるようではあります。
彼は乱世を生き延び、決断が遅れたばかりに秀吉に睨まれ、命すら落としかねないほどの目に遭いました。
早め早めに手を打つ重要性を、誰よりも身に沁みて知っていた人物です。
淀殿の破滅は、日本史上において、実質的な女性家長という存在も終わらせました。
江戸時代に入ると、女性の地位と発言力は低下。
奥を守る別の権力として、男性側の決断には関わることのない体制が敷かれてゆきます。
なぜそうなってしまったのか。
江戸時代、徳川家康は林羅山を重用し、儒教の教えを徹底させました。
方広寺鐘銘を解読し、見咎めた一人がこの羅山です。
儒教の生まれた中国では、皇帝が龍、皇后が鳳を司ります。将軍のおわす柳営と、御台のいる大奥も、時代が降るにつれ厳格に分かれてゆきました。
かような龍鳳分かれる江戸時代を迎えて、淀殿は悪女としてすっかり貶められ、秀吉の失策が『太閤記』の痛快なストーリ展開で消されてゆく一方、彼女の悪名ばかりが高まります。
他の男と戯れる淫らな淀殿。
秀次を消せと囁く淀殿。
北政所を追い出す淀殿。
そして秀頼を溺愛し、甘やかした淀殿。
明治時代を迎え、徳川贔屓の風潮が消えていっても、彼女の存在は悪女とされ続けました。
そうした過去のキャラクター設定とは決別し、むしろ“世の中に流されてしまう姫君”として描いた大河ドラマが2016年の『真田丸』です。
あどけなく、悪意がないのに、物事を悪化させてしまう――そんな淀殿の姿は、かえって物悲しいもので、悪女という性根の悪さはありません。
一方で2023年の“シン・大河“こと『どうする家康』では、淀殿を悪女路線へと回帰させるような描き方でした。
母のお市を救わなかった家康を恨み、彼に対抗して「天下を取る」と子役の時点で宣言するだけでなく、妖艶な笑みを浮かべながら秀吉に接近。
フィクションにつっこむのも野暮ですが、あまりにも時代錯誤な描き方であり、せめて問題点だけでも箇条書きにしておきたいと思います。
・家康が市を救えなかったとしても仕方のない話であろう
・そもそも家康と市の間に恋愛関係など成立しない
・恨むにせよ、なぜ手を下した秀吉ではなく、家康なのか?
・秀吉は庇護した時点で茶々に目をつけていたとは考えにくい
・茶々はまるで自分が男子を産み、その男子が成人するとわかっているような口ぶりであった
・斬新だと喧伝しながら、今では古い淀殿悪女路線に回帰するとはどういうことだろうか?
日本史を代表する悪女枠には北条政子もいます。
彼女は2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場し、最新の研究成果と近年のジェンダーを反映させた結果、非常に秀逸な人物像で描かれました。
なぜ北条政子は時代によってこうも描き方が違うのか 尼将軍 評価の変遷を振り返る
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新たな淀殿像については、新たな作品に期待することにしましょう。
美人女優が演じ、悪辣さや愚かさを見せるだけというのは、あまりにも時代遅れでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田千鶴『淀殿』(→amazon)
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』(→amazon)
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他