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【片桐且元】
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片桐の意見として淀殿に譲歩案を提示するも
兎にも角にも、駿府へやってきた片桐且元。
家康は直接会わず、代わりに側近の僧侶が「呪いじゃないならそれなりの誠意を見せてよ^^」(※イメージです)という空気だけを匂わせました。
個人間だったら確実に嫌がられる対応ですが、政治的なやりとりでは定石というか、腹を探らせるやり方ですね。
家康の言わんとすることを察した且元は、あくまで私見として、秀頼と淀殿に対応策を提案しました。
具体的には以下の三案となります。
戦国時代であれば珍しくない話です。
しかし且元は、淀殿という人間を理解しきれていませんでした。
秀吉存命中に「天下人の跡継ぎの母」として絶対的な地位になった淀殿には、今さら自分と息子が誰かの下になることなど考えられなかったのです。
淀殿は、織田信長の妹・お市の方の娘(浅井三姉妹の長女)であり、秀吉お気に入りの側室でしたから。
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大坂城を退いた且元 かくなる上は武力行使やむなし
また、淀殿と同じように、
「豊臣家は家康の家臣ではない!」
と考える人々も、且元の提案を断固拒否しました。
だからこそ
【豊臣家を救いたい!】
という譲歩案を提出した且元に対し、豊臣家内は冷ややかな対応をするようになり、弟の貞隆も大坂城内で孤立。
結局、片桐且元と貞隆の二人は、貞隆の居城である茨木城(現・大阪府茨木市)へ退かざるを得なくなります。
家康としては、且元が自分の意向に気づき、何らかの手を講じると考えていたでしょう。
豊臣家に引いて貰えれば、それで政権は安定し、完全に滅してしまう必要もないワケです。
しかし、その且元が大坂城から出てしまっては、もはや
・豊臣家に
・家康の真意を理解する人間がおらず
・話し合いは成立しない
ことを意味します。
後任のようなカタチで大野治長兄弟などがおりましたが、家康自身の寿命を考えれば、もうこれ以上の猶予はありませんでした。
大坂の陣直後に且元死す
もはや大坂へ攻め込むしかない――。
関ヶ原の戦い(1600年)から、この交渉までにかけた時間と比べ、方広寺鐘銘事件(1614年)から大坂冬の陣(1614年)までの時間は極めて短いものでした。
なんせ発覚したのが同年夏で、その2ヶ月後の10月には、家康自身が軍を率いて駿府を出ているのです。
おそらくは片桐且元を大坂へ帰した時点で、家康は「この冬までに良い反応がなければ、武力行使もやむなし」と決めていたのでしょう。
豊臣家は豊臣家で、方広寺鐘銘事件の前から浪人や兵糧を集めていました。
上方でも「いつ戦になるかわからない」といった噂が流れていたようです。
石田三成はかなり前に処刑されていましたが、この辺の豊臣側の動きは三成とよく似ているというか、
「こう動いたら、世間や家康・幕府はどう思うか」
「それが自分たちにとってどんな影響を与えるか」
という視点が欠如している気もします。
家風といえばそれまでですけれども、もうちょっと良い形で危機を乗り越える方法もあっただろうな……と思えるだけに、残念なことです。
もしもこのとき、豊臣家が柔軟な姿勢を見せていたら?
豊臣家に味方した大名や武将も、現在よりは多く生き残れていたかもしれません。
なお、片桐且元は大坂夏の陣で家康方につき、自身の藩(竜田藩・初代藩主)を残しはしましたが、当人は豊臣家滅亡からわずか20日ほど後に亡くなっています。
死因については病死とも自害とも……。
なんとも切ない終わりになってしまいました。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
大坂の陣/Wikipedia
片桐且元/Wikipedia