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【秀吉は人たらしなのか?】
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秀吉の人心掌握術
では、秀吉はどんな人心掌握術を行ってきたか?
具体例を見てまいりましょう。
◆対上司:金ヶ崎の戦いで殿を志願する
元亀元年(1570年)、織田信長がピンチに陥った【金ヶ崎の戦い】において、危険な殿を買って出ています。
この捨て身の行為により、信長の心を掴みました。
◆対大名:飴と鞭を使い分ける
天正18年(1590年)の【小田原征伐】では、伊達政宗を出迎え、「まるで父上のようだ」と感激させています。
強権的なようで、いざ顔を合わせたら親しみが持てる――そのギャップに政宗もすっかり参ってしまったのでしょう。
◆茶の湯ブームの創設
豊臣政権の特徴といえば、千利休と弟子たちによる「茶の湯」があります。
ただの風雅な趣味ではなく様々なトレンドもあり、利休や弟子たちが「これは逸品である」と太鼓判を押せば、たちまち高値で売れてしまう。
そんなブームが起きましたが、この流行には実は重要な意味があります。
かつて室町幕府の三代将軍・足利義満は【日明貿易】を行いました。
遣明使を派遣し、明との交易で独占的に茶器や文物を入手。
そうした輸入品を用いることこそが大名としての格式であると定義したのです。
秀吉は、こうした【日明貿易】ありきの美意識に「日本ならではの価値を見出してゆく」という画期的な作業を行いました。
茶の湯はその代表例であり、庶民も参加することができた【北野大茶会】も、そのアピールの場として開催されたのでしょう。
家柄も、先代からの家臣もいないからには、一から作り上げる必要があった秀吉――。
織田信長の家臣時代は、とにかく取り入ることが重要な課題でしたが、思いがけぬ偶然と幸運により天下が手に入れたからには、その主人に相応しい振る舞いをせねばならない。
出世街道を進むごとに、人心掌握術を研鑽させていったとも考えられます。
こうして見ると、やはり相当な頭の良さ、あるいは自己鍛錬や自己批判に耐える忍耐力も持ち合わせていたのでしょう。
しかし問題は、頂点にまで上り詰めた後でした。
豊臣政権の維持に必要な足場固めをするどころか、自ら壊すような真似をしてしまう。
先に挙げた秀次事件では、その惨状を目にした京雀たちが「これでは天下は治らない……」と嘆いたとされます。
豊臣政権が短命だったのは、後継ができないことや、家康による簒奪という要素がありますが、最たる失敗は「足場固めを盤石にできなかった」ことでしょう。
物語と近代史の中での秀吉
徳川政権の時代になって秀吉という人物はどう受け止められたか?
というと、出世譚である『太閤記』は大人気を集めています。彼の出世物語や豪快さは、スカッとする伝説として語られていったのです。
しかし、時代が下りますと、ただの娯楽でもなくなります。現の徳川政権に対する批判も見え隠れし始め、幕府としては見過ごせなくなります。
かくして、織豊政権時代における実在人物名の使用禁止が通達されました。
当時のクリエイターたちは織田信長を「小田信永」にするなどして、こっそり掻い潜ってはおりますが、明治時代となると豊臣秀吉のタブーは払拭されます。
徳川家康の評価が下落し、秀吉は上がってゆくのです。
右肩上がりの新時代にしたいという思惑。
朝鮮出兵こそアジア進出を先んじていたと導きたい意識。
こうした新時代に向けた思想と、もともとあった人気が合致し、華やかな人物像として持て囃されていったのです。
事業で成功した人物が「今太閤」と呼ばれるのも一つの表れでしょう。
そしてイケイケドンドンの秀吉像は、戦後日本の大河ドラマにおいても定番の材料とされるようになります。
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