こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【北条はなぜ秀吉に滅ぼされた?】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
北条と徳川の同盟関係
注目したいのが、この時点での外交です。
秀吉vs家康の総力戦となった「小牧・長久手の戦い」複雑な戦況をスッキリ解説
続きを見る
家康は北条と、秀吉は佐竹義重と手を結んでいました。
秀吉は既に天正11年(1583年)あたりから、北条の背後を衝く佐竹に接近していたと考えられます。
もしもこのまま、家康と秀吉が対峙を続けたら、また別の展開があったことでしょう。
あるいは北条がもっと積極的に秀吉へ接触できていたら、後の東国勢力図は大きく変わっていたかもしれません。
しかし、小牧・長久手の戦いが中途半端なカタチで終わり、上杉、佐竹、宇都宮といった諸勢力が秀吉との仲を深める一方、北条の動きは鈍いものでした。
そんなタイミングで、事態は大きく動きます。
【天正大地震】の影響もあり、家康とこれ以上の争いを避けたい秀吉が、天正14年(1586年)、妹の旭を家康の正室として嫁がせ、さらには大政所まで遣わしたのです。
家康側も於義丸を秀吉のもとへ人質として差し出し、両者の間で和議が成立。
この事態に際して、北条が何もしていなかったわけではありません。
もしも家康が討たれたらどうするか?
そう考え、何かあれば徳川方へ加勢するよう準備を整えていました。
秀吉との交渉をはかる
家康も秀吉と、北条についての話し合いを進めました。
佐竹や宇都宮は秀吉と直接交渉していましたが、北条は徳川というワンクッション挟んでの交渉となります。
北条としては小田原城はじめ、防備を固めるしかありません。
結果がどう転ぶかわからぬからには、備えを怠るわけにもいかず、天正15年(1587年)までは戦の準備が着々と進んでいました。
しかし、天正16年(1587年)ともなると、この準備が一旦止まります。
2月には、秀吉の侍医である施薬院全宗に、北条氏政からの書状が届き、これに対して上洛を待つ旨が北条側に返されると、戦闘は回避されたかのように思えました。
北条は陸奥の伊達政宗とも連携しつつ、京都との交渉を進めていたのです。
最悪の展開となった沼田問題
天正17年(1588年)2月には、北条家臣であり、家中きっての文化人でもある板部岡江雪斎が上洛を果たしました。
交渉術に長け、茶道や詩歌にも詳しい人物です。上洛して交渉にあたるとなると、こうした文化人でなければ恥をかきます。
その話し合いで最も大きな事案となったのが【沼田問題】でした。
沼田は上野国にある真田領であり、これを北条に譲る譲らないという所領問題があり、結果、次のように決められました。
このような裁定がくだされ、あとは北条氏が上洛すれば問題は解決するかのように思われました。
秀吉にも狙いはあります。
天正17年(1588年)9月、秀吉に従属した諸大名に、妻子上洛を命じているのです。
このころの秀吉は、ことあるごとに権限を集中し、天下統一へ着々と歩んでいたところ。
北条も上洛すれば、東国に対する示しがつけられる。
そんな緊迫した11月、大問題が勃発しました。
北条が真田の名胡桃城を攻め取ってしまったのです。渦中の沼田領にある城であり、あまりに危険なターニングポイントと言えます。
ここで北条氏政が急遽上洛でもすれば、まだ交渉の余地はあったかもしれません。
しかし、実現には至りませんでした。
※続きは【次のページへ】をclick!