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【宇喜多直家】
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「兄上の呼び出し? 鎖帷子を用意せよ」
それでもやはり謀殺・暗殺はよく用いたので、実の弟ですら
「兄上の呼び出し? 鎖帷子を用意せよ((;゚Д゚))ガクブル」
という状態だったとか。
同盟と破棄を幾度も繰り返していたので、裏切りによる殺害も含めれば、その数は倍近くなるでしょうか。
よくこれで本人が刺客を放たれなかったものです。
それとも返り討ちにしたんでしょうか。
しかし見方を変えれば、「急に親しいフリをするようになった相手」は信用しなかったという面もあります。
なぜなら、暗殺をさせた古参の家臣を使い捨ててはいないからです。
ただ単に暗殺が好きな卑怯者であれば、情報が漏れるのを恐れて口封じまでしたでしょう。
ですが、城が餓えるようなことがあれば直家自ら食を断ったり工作に励んだり、苦しみを分かち合おうとする人でもあったのです。
当初の食料不足はなかなか深刻だったようで、家臣たちも熱心に畑を耕していたとも言います。
直家は、恐れられてはいても家臣に背かれることはなかったようです。
毛利家と織田家の狭間に立たされ
直家は暗殺や謀略を繰り返し、主家・浦上家を追放して戦国大名となりました。
そこで今度は、毛利家と織田家の狭間に立たされることになります。
なんせ彼の本拠は備前(現・岡山県東南部)ですから、地理的に仕方のないこと。
この頃は豊臣秀吉が中国方面の攻略担当となり、対する毛利家は毛利元就は亡くなっていたものの、当主・毛利輝元の叔父である吉川元春と小早川隆景の二人が脇をがっちり固めていました。
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当然ながら暗殺など通用する相手ではありません。
実は一度、毛利家の二人に対し、
「戦帰りにウチへ寄ってくださいよ(アナタ方の首を手土産にしたいんで)」
と誘いかけたのですが、あっさりバレてしまい失敗に終わっています。
そこでさすがの直家も諦め、潔く織田信長に投降する道を選びました。
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それまで毛利寄りだった直家が降伏の意向を示したことで、秀吉はこれを手柄にしようと信長への仲介を引き受けます。
戦をせずに傘下が増えれば、それに越したことはないですからね。
息子の秀家は豊臣五大老にまで出世
かくして織田家についた直家は、秀吉に感謝したのか対毛利家攻略に力を注ぎます。
そのおかげもあってか、長男・秀家は後々秀吉から寵愛され養子にもなり、若いのに五大老にまでなりました。
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暗殺上手と忠誠心、似ても似つかない単語のような気がしますが、人は見かけだけでなくやってることにもよらないということでしょうか。
直家の木像の写真見てると背筋が寒くなるなんてそんな気のせい気のせい。
なお、当人の最期ですが……。
謀殺を重ねてきただけに、悲惨な死を迎えたのでは?なんてことを想像してしまうかもしれませんが、実は畳の上で亡くなられております。
戦死や切腹ではなく病死だったんですね。
ただ、その死因が一風変わった病名でして。よろしければ以下の関連記事でご確認ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
渡邊大門『宇喜多直家・秀家―西国進発の魁とならん (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
宇喜多直家/Wikipedia