大坂冬の陣でイメージするものといえば真田丸ですよね。
難攻不落だとされる大坂城で、唯一弱点だと見られた南側の空き地に、真田信繁(真田幸村)が敷いた軍事施設です。
従来は城にくっついた巨大な馬出しのような建造物と思われていましたが、奈良大学・千田嘉博教授の研究成果により、離れ小島のような小城だった可能性が高いのではないか?とされ、大河ドラマ『真田丸』でもそのように描かれておりました。
しかし、冬の陣での戦闘は、当然ながら真田丸だけではなく、他のエリアでも激しい野戦が行われていました。
慶長十九年(1614年)11月26日、大坂冬の陣の局所戦である【鴫野・今福の戦い】がありました。
「しぎの・いまふくのたたかい」と読みます。
大坂城の東側を守っていた鴫野砦と今福砦
鴫野と今福は、両方とも大坂城付近にあった村の名前で、合戦前に豊臣軍が砦として整備。
大坂城から見て、大和川という川を挟んだ真向かいにありました。
地図で確認してみましょう。
画面の真ん中左に現・大阪城が見えますでしょうか。
そしてその右に黄色い拠点が2つ。
左側の黄色い拠点が鴫野砦で、右が今福砦(今福鶴見駅)です。
城を攻めるに当たってこの二ヶ所を足がかりとするため、家康は上杉景勝と佐竹義宣に攻略を命じました。
この二拠点を奪わなければ大坂城攻めも本格化できないだけに、激しい戦闘が予想されたでしょう。
上杉と佐竹に命じたのには理由がありました。
歴戦の勇者・又兵衛や重成が出陣!
上杉家は、関ヶ原の戦いでハッキリと徳川の東軍と敵対しておりました。
一方、関ヶ原当時、常陸の大名だった佐竹家は、東軍と直接ぶつかり合ってはいないものの、どっちつかずの日和見をしていた……という引け目があります。
家康的には「ちゃんと働かなかったら、どうなるかわかってんだろな」というわけです。
同時に、上杉・佐竹にしてもここで戦果戦功を上げようと士気は盛んだったはず。
26日の早朝、兵5,000の上杉家は鴫野へ、1,500の佐竹家は今福へそれぞれ向かいました。
おそらく戦闘が始まったのもほぼ同じ頃だったでしょう。
まず今福のほうは、大野治長麾下の武将・矢野正倫と飯田家貞が守備側に布陣。
元々いた兵が300と少なかったことと、豊臣方が退却する際に門を閉じなかったこともあり、当初は佐竹軍の有利に進み、一時砦を占拠しました。
そこで豊臣方の猛将・木村重成が大坂城から反撃を開始します。
さらに大坂城の天主から戦況を見ていた豊臣秀頼が今福を救援するよう命じました。
命を受けたのは後藤又兵衛基次です。
かつて黒田官兵衛(如水)に仕えた歴戦の武士で、関が原の戦いの後、官兵衛の子・黒田長政と大ゲンカして出奔して浪人になり、豊臣方についておりました。
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この勇将たちの率いる援軍3,000で勢いづいた豊臣方は盛り返し、佐竹軍は後退せざるをえなくなります。
上杉隊は倍の敵を撃破した
一方、鴫野では、上杉軍が兵力を生かして順調に攻め進んでいました。
守備に置かれた武将は井上頼次。豊臣家の鉄砲頭という立場の人で、兵2,000と共に守ります。
上杉軍は、豊臣方が防御のため作っていた柵ごとぶち破るほどの勢いで井上は戦死、上杉軍はそのまま村を攻め取りそうな勢いで攻め込みました。
しかし、こちらも大坂城から、大野治長や秀頼の旗本衆が加勢にがやってきて、兵の数では不利になってしまいます。
そのため一時的に押し返されはしたものの、そこは謙信以来戦慣れした上杉軍。
いったん退いて味方を左右に分かれて退かせ、目の前が開けたところで数百丁という鉄砲の一斉射撃から槍兵の側面からの突撃という素晴らしい連係プレーで、援軍まで粉砕して見せました。
当初、村にいた兵は2,000に加え、援軍の大野治長は1万2,000を率いていたそうですので、上杉はおよそ2.5倍の兵を打ち破ったことになります。
さすがとしか言いようがありません。
ちなみに、上杉景勝軍のそばの東軍には堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝らも備えており、上杉がピンチのときに加勢にかけつけています。
佐竹を救援する上杉景勝
あまりの働きぶりに、家康も「朝早くから戦って疲れてるだろうから、守備は他の隊に任せて一度下がれ」と命じたのですが、当主である景勝はこれをきっぱり断りました。
「自力で勝ち取ったところを他人に任せられるか! 心配無用!!」(意訳)と使者を追い返し、そのまま鴫野で一時休息。
さらなる攻撃体制を取り続けます。
そこへ対岸の佐竹軍から「上杉さん、もし余裕があれば手伝ってもらえませんか、っていうかウチマジヤバイ。超ヤバイ。渋江(渋江政光・佐竹家の重臣)が狙撃されたし、もうどうにでもなーれ」という救援要請が届きます。
これを受けた景勝は、まだ殺る気があり余っていた配下の水原親憲という武将に率いさせて大和川を渡らせます。
渡河戦というとそれだけでフラグの予感がしますが、そこはさすが上杉軍というべきか背後に憂いがなかったからか、無事渡りきります。
それどころか、佐竹軍と対峙している後藤隊・木村隊を見るなり、またも射撃を喰らわせ、大坂城へ引き揚げさせるのです。
やっぱり上杉軍って怖い……。
鴫野・今福の戦い前に行われた【木津口川の戦い】に続き、連勝を果たした家康の機嫌は上々。
徳川方は着々と大坂城へ進んでいきます。
なお、この戦いで木村重成は大坂城での評価が高くなり、また、苦戦した佐竹も働きを認められ、徳川秀忠から感状を送られています。
長月七紀・記
【参考】
『大坂落城 戦国終焉の舞台 (角川選書)』(→amazon)
歴史読本「大坂の陣と秀頼の実像」(→amazon)