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【小田原征伐】
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幅20~30m 堀と土塁の高低差は約12m 勾配も50度
そして、現在の小田原城のイメージでいると、大きく見誤るのが「空堀」です。
特に、秀吉と断交してから拡張した総構の空堀は必見です。
水が張っていないので、難なく堀を越えられるんじゃないか?
そう思ったら、あなたはもう空堀の底で死亡の足軽兵。
現在の姿は、未整備のまま放置された結果、雑草や木が伸び放題であったり、たとえ保全されていたとしても芝を貼って保護するなど、本当の姿ではありません。
では戦国時代はどうだったのか?
実戦的な空堀は、つま先を引っかける隙間がないくらい「きれいに土をならして滑りやすく」しております。
ゆえに鎧兜と武器を持った武士が登り降りするのは至難のワザ。
もたついているうちに上から弓矢や鉄砲、煮湯、糞尿が落ちてきて、酷い目に遭い、下手すりゃ死ぬのが定番です
例えば、小田原城・八幡山の北西部、尾根部分の空堀は幅が20~30mあり、堀と土塁の高低差は約12m、勾配も50度ありました。
さらには、ツルツルにならした土でしたので、そのデータを見ただけでも難易度MAXの無理ゲーです。
完全包囲した秀吉が総攻撃ではなく相手の降伏を気長に待った理由が理解できるでしょう。
総構の本当の実力は未知数
しかしながら、秀吉が無理攻めしなかったゆえに、総構の本当の実力は未知数です。
過去に上杉謙信や武田信玄の包囲にも耐えたという戦歴は確かにあります。
が、その当時は総構がなかったですし、上杉勢については城のキワで撃退したようですが、むしろ謙信は時間切れで帰ったと考えるほうが現実に近いと思います。
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その点、秀吉は
「時間切れで帰ることはないですからぁ~! というか城も築いたし、茶々も呼んだし、茶会も開くよ! 何? 箱根には温泉もあるのか? ヒャッハー」
と降伏するまでず~っとプレッシャーかけるよ、というメッセージを暗に発しています。
北条家にしてみれば、最前線の峠の城を次々に突破され、徳川家ばかりか伊達家も助けに来ない――それが分かった時点で全面降伏すべきでした。
が、包囲されたとはいえ小田原城が完全に破られていない状況ではなかなか決断ができなかったのかもしれません。
北条氏直は高野山に入り、後に秀吉から1万石を与えられますが、それから程なくして亡くなりました。
「小田原評定」も難攻不落の小田原城があってこその故事だと言っても過言ではないでしょうか。
なお、伊豆から小田原へと本拠地を映した北条氏綱や、関東での覇権を圧倒的にした北条氏康など、北条五代記も以下にございますのでよろしければ併せてご覧ください。
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筆者:R.Fujise(お城野郎)
◆同著者その他の記事は→【お城野郎!】
日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。