お城野郎! 織田家

坂本城は琵琶湖ネットワークの要所 そして可成は見事な戦死を遂げた 【シリーズ信長の城vol.7】

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確実な資料が残っていませんが、朝倉家が三好三人衆に呼応して動いたことは間違いありません。大ぴらにやるものではないので資料がないのは当然ですね。

そして両者の仲介には、本願寺が一枚噛んでいました。

実は三好三人衆と本願寺は三好家が畿内を支配している頃から昵懇の仲。寺社勢力は時の権力者と繋がってこそ繁栄できます。

本願寺は一時期、武家の争いに豊富な兵力を持って介入し続けた結果、敵対する法華宗派の反撃に遭い、山科本願寺を攻略されて洛外から追い出されてしまいました。

それ以後、武家の争いには一切関わらず穏健派の寺社勢力として将軍家や管領家、また公家などと平和的に結びついて全国各地の本願寺領である寺内町の発展に勤しんでいました。織田信長が初めて摂津にやってきたときも本願寺顕如は名物を信長に献上して上洛を祝い、時の権力者との友好的な結びつきを望んでいたことが分かります。

 

今回も顕如は中立を保つ予定でした。

が、信長が摂津にやってくる前から長年つきあいのある三好家に援軍を要請され、また信長の寺社取り締まりの新方針に対しても誤解があったようで(商業利権を返上すれば信仰と権利は認める)、結果的に本願寺内で強硬派の声が大きくなり久々の参戦を決めます。

信長が本願寺に石山からの退去を求めていたとも云われていますが、これには確かな証拠はありません。

神仏を信じない信長は寺社に対して強硬だったと思われがちですが、安土城内にも寺を建立しましたし、何より後年、本願寺との和睦がなってからは信長との約束を遵守し続ける本願寺と完全に和解し、布教を始めすべての権利を認めています。

本願寺にとってむしろ憎きは加賀や能登で100年以上も争ってきた朝倉家のはずです。そして本願寺の最も強硬な一派は北陸にいました。おそらくこの和解に三好三人衆が仲介し、そのお返しに反信長連合への参加、そして京への進軍となったのでしょう。

ちなみに浅井家は近江の一向一揆とは早くから手を結んでゆる~い付き合いをしていましたので、浅井家と本願寺も昵懇の仲です。浅井家の大同盟への参加は、同様に近江寺社領の保護で繋がる延暦寺勢力も味方につくことになります。
本願寺と延暦寺は相容れない仲ではありますが、このような三好三人衆や浅井家などの武家を仲介に繋がっていったのです。さらにここに旧領回復を願う南近江の六角ゲリラが加わります。

三好三人衆―本願寺―朝倉―浅井―延暦寺―六角の利害はここですべて反信長で一致しました。

 

しかし! そうは簡単にコトが運ばないのが世の常です。

信長の進軍速度と攻撃力は凄まじく、三好三人衆はたまらず和睦を提案します。これに対し、三好三人衆を駆逐したい信長と義昭は和睦を拒否。本願寺もホンネは蜂起よりも早期の和睦がよかったのでしょうが、信長はこの機会に三好三人衆の勢力を完全に絶つことを狙っていました。

三好三人衆せん滅の意志は信長より足利義昭の方が強かったともいわれています。本圀寺滞在中に襲撃された記憶も新しく、何より三好家は父・足利義晴を都落ちさせ、兄・義輝を殺害した仇敵です。

義昭の三好家への敵愾心や恐怖心は並々ならぬものがあり、義昭は遠く中国地方の毛利元就や九州の大友宗麟にも参戦を依頼したり、四国に潜む三好三人衆に対して壮大な包囲網を画策していました。その度に、信長からは「俺様の断りなしに勝手に指示出すんじゃねえ!」と怒られてしまうという、この二人は実はナイスコンビなんじゃないかと心温まるエピソードもあるほどです。

この和睦拒否が、今度は織田、足利連合軍に想定外の出来事をもたらします。

信長は天王寺方面から楼の岸砦経由で川を渡り、海老江という場所に移動していました。ここで義昭と落ち合ったのですが、楼の岸砦と川口砦の背後の石山本願寺が決起したのです。

前回の洛外の城の紹介の時に、本願寺が各地に散らばる寺のネットワークを駆使した地域間の技術交流があり、城郭技術を発展させた、まさに戦国のグローバルカンパニーだ!と述べましたが、本願寺は戦闘でもこのネットワークを如何なく発揮します。織田家の領地内に散らばる一向門徒に一斉蜂起を指示し、尾張、伊勢長島、南近江の一向門徒衆が蜂起したのです。

 

相変わらずの朝倉クオリティーな進軍でしたが周回遅れがたまたまピッタリあってしまったのか、近江北部からは軍奉行の朝倉景鏡率いる朝倉本隊が浅井長政の本隊と合流して、このタイミングで琵琶湖西部の高島付近に現れます。ちなみにこの近江高島郡がデパートの高島屋の名前の由来です。近江商人の流れだったんですね。

さすがの信長もピンチを感じたでしょう。

京を奪われること以上に東西から挟撃され、美濃からの進軍ルートをまたしても遮断されることは最も避けたいところ。信長は三好三人衆への対処を和田惟政や松永久秀、三好義継に任せます。メンツを見ても分かるように、三好三人衆とは旧知の仲の武将たちを野田城、福島城包囲に置いていきました。つまり和睦交渉のサインです。

 

信長人生最大の危機も、朝倉クオリティーがぶち壊す「志賀の陣

朝倉・浅井連合軍の動き

朝倉・浅井連合軍の動き/©2015Google,ZENRIN

 

この間に信長は全力で京に帰還します。しかし一歩早く、朝倉・浅井連合軍が近江の坂本にたどり着きました。
この近江の坂本という町は、後に明智光秀の居城「坂本城」となることで有名ですが、この頃は琵琶湖に臨む一大商業地であり、延暦寺の門前町でした。ここに朝倉・浅井連合軍が進駐してきましたが、坂本に近接する宇佐山城の森可成が城から打って出て戦いを挑みます。

織田家の軍勢、特に尾張以来の譜代家臣たちは南近江に分散して駐留しているだけでなく、信長と共に摂津方面にも出払っています。森可成の宇佐山城は包囲には耐えられる山城であっても打って出るほどの兵力はありません。しかし籠城したところで味方の後詰めもまず期待できません。

劣勢の森可成が少数で打って出た確実な理由は分かりません。が、坂本の町を朝倉、浅井連合軍、特に朝倉家に押さえられると織田家にとってまずい状況だったのでしょう。森可成には全力で坂本の町を押さえる指示が出ていた可能性はあります。

 

この頃の信長には既に坂本城築城の構想と、琵琶湖を介した支城ネットワークの構想ができていたと考えられます。浅井家滅亡後、琵琶湖を完全に支配下に置いた信長は、近江の諸城を山城からすべて琵琶湖岸に集約させました。
美濃路へ続く方面には佐和山城、東は小谷城を廃城にして湖畔に長浜城を築城。そして西には高島の地に大溝城。南部の京へ至る場所には琵琶湖にせり出すように坂本城を築城し、南東に観音寺城を廃して安土城を本拠地に据えます。

これらの城はすべて商業地を抱え、軍事的には内湖から琵琶湖へ通じ、船での大軍の素早い出撃が可能であり、相互に連携が取れるシステムでした。
岐阜城のイージスシステムの発展型ともいえる「攻めの城」の最終形態とも言えます。

信長の城の特徴として、城を既にある商業地に隣接させて城下町として取り込むように築城したことは前回紹介しました。

安土城のように隣接する観音寺城の方が標高が高く要害堅固にも関わらず、常楽寺周辺の商業地を取り込み、琵琶湖の水運をいかせる安土山に築城することを良しとします。
信長は攻めの城と共に、いかに商業利権を城下に取り込むかも重視していたかがよく分かりますね。

 

このような構想が既にあったからこそ、坂本の町の防衛は必須だったのかもしれません。

坂本の町を朝倉家に完全に掌握されてしまうと、琵琶湖経由で朝倉方が出撃してきますので、近江のどの地域にいても朝倉、浅井との二正面作戦を展開しなくてはならなくなります。包囲中の佐和山城との連携も十分に可能です。同時に比叡山経由で京都への進軍も可能ですので、朝倉家に戦いの主導権を完全に握られてしまいます。

こうした事情を抱えていたためか、この地で信長の弟・織田信治、蒲生賢秀の弟・青地茂綱、そして森可成は討ち死。

残った部下たちは司令官不在の宇佐山城に戻り、激しい籠城戦を行い、からくも落城を免れました。何とも皮肉な結果です。森可成も籠城していたらおそらく死ぬことはなかったでしょう。

森可成は血気にはやる年頃でもないのでやはり坂本出撃の指示は出ていたのは確実です。結局、朝倉方は宇佐山城の攻略をあきらめ、坂本を押さえたまま大津方面に南下し、醍醐から山科に入って、京を伺います。

 

しかしこれに信長が素早く反応し京に戻ってきます。

朝倉・浅井連合軍は信長の入洛を受けて、反転して比叡山に上り、陣を構えました。足利義昭は朝倉家が比叡山から下山してくることを想定して、将軍山城と中尾城に封鎖線を引きます。信長は休むことなく坂本へ向けて出陣します。

ところが朝倉・浅井連合軍は出てきません。

というか坂本の軍事的重要性を全く理解していなかったのか、坂本からも比叡山に軍を引き上げてしまいます。この坂本の地が要衝であることから決戦になることを信長は覚悟していたと思います。しかし相手が戦のド素人でした。

あるいは、この動きから朝倉・浅井連合軍は信長との野戦を意図的に避けていたことも考えられます。この後2ヶ月以上も比叡山に篭ったまま出てきません。

信長は延暦寺に対して、朝倉、浅井の味方をやめなければ、攻撃するぞと脅しますが、相手はこれを無視。また、信長自ら決戦を朝倉家に申し込むもこれも無視されます。信長にしてみれば坂本を押さえることに成功さえすれば、ある程度の防衛成功なのですが、摂津や各地の一向門徒の動きが気になります。

 

結局、信長は比叡山を包囲したまま動けずじまい。

この間に石山本願寺が信長の領地に散らばる末寺に決起の檄を飛ばし、方々で一向宗一揆が蜂起しました。

南近江の一向一揆は美濃−京都間の街道を封鎖にかかります。六角ゲリラもこれに与して南下します。長光寺城の柴田勝家は摂津方面の後始末、佐久間信盛は京に駐留中で、ほぼ無防備な状況です。

信長は包囲したまま動けずにいましたが、小谷城と佐和山城の押さえとして置いていた横山城の秀吉と丹羽長秀がいち早く状況を察知して一向一揆せん滅のために軍を南下させました。

南近江の一向一揆は北陸ほど戦闘に慣れてはいなかったので、すぐに鎮圧されます。そのまま信長の元に駆けつけ、事なきを得ます。包囲中の信長は無為に過ごしていたのではありません。南近江方々に調略の手を伸ばし、六角家ともついに完全に和睦し、長政を激怒させます。

しかし長島で起こった一向一揆の蜂起は信長の弟・信興を敗死させます。軍の大半を近江から摂津に展開していたため、長島の一向一揆に後詰めできる軍はほとんどなかったと思われます。一向一揆の立てこもる長島の地もまた野田城、福島城のような水に囲まれた平城であり、特殊な攻城戦術が必要で、信興には荷が重過ぎました。

このとき信長は人生最大の危機に陥ち入ったといわれますが、私は朝倉・浅井連合軍が坂本の地から兵を引き上げた時点で、その危機は既に去っていたと考えます。

 

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