2019年大河ドラマ『いだてん』。
主役の長距離ランナー・金栗四三を中村勘九郎さんが演じ、その盟友として生田斗真さんが演じる短距離ランナーが三島弥彦でした。
一体どんな人物か?
NHKの発表では、こう紹介されていました。
三島弥彦(みしま やひこ)
金栗四三の盟友
父は元警視総監、兄は日本銀行総裁という子爵の名家に生まれる。東京帝国大学の学生というトップエリートでありながら、あらゆるスポーツに秀で「運動会の覇王」と呼ばれる。金栗とともに日本最初のオリンピック選手に選ばれる。
写真で見ると、ちょっとゴツいというか、ワイルドながら、実際はお坊ちゃま。
生田斗真さんのイメージはぴったりで、ヒゲ姿もなかなか新鮮ですね。
それにしても「運動会の覇王」とは、なかなか強烈なキャッチフレーズです。
1954年2月1日が命日となる史実の三島弥彦は、いかなる人物だったのでしょうか。
華麗なる薩摩の三島一族 その末子
三島弥彦は、金栗と並んで日本人初の五輪選手です。
ただし、アスリートとしての足跡はさほど目立ちません。
金栗が生涯を陸上競技に捧げたのに対し、弥彦は途中で転身したためでしょう。
弥彦は明治19年(1886年)、警視総監・三島通庸の末子として誕生しました。
兄・三島弥太郎が慶応年間の1867年に鹿児島で生まれたのに対して、弥彦は東京生まれの東京育ち。
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父・通庸は、大久保利通が率いたとして名高い薩摩藩【精忠組】に所属しており、幕末の京都において活動しておりました。
しかも、です。
薩摩藩士同士が殺し合った、凄惨極まりない事件【寺田屋事件】にも巻き込まれております。
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ただし、通庸は幕末よりも明治以降の活躍の方が目立ちます。
西郷隆盛よりも大久保利通との距離が近かった彼は、政府から篤い信頼を得て、鶴岡・山形・福島・栃木と、東北から関東地方にかけての県令を歴任するのでした。
その剛腕から、大久保のみならず、長州閥の伊藤博文からも信頼されていた通庸。
山形県の特産品であるサクランボの栽培を奨励し、各地で大規模な土木工事を行う等、政治手腕も確かなものでした。
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しかし、彼にはもう一つの顔もあります。
別名は「鬼県令」です。
あまりに暴力的かつあくどいやり方で、「ワッパ騒動」や「自由民権運動」を弾圧。
福島県令時代は、会津地方の住民を強引に土木工事に駆り出し、応じられない者の家財道具や家を競売にかけるという極悪非道の所業を行いました。
そのため、しばしば命すら狙われ、気丈な妻・三島和歌子(『いだてん』では白石加代子さん)が自ら武器を手に護衛をかったほどです。
警視総監時代も「保安条例」を出し言論を弾圧しています。
日本に芽生え始めていた民主主義思想を刈り取った辣腕は、世の人々から深く恨まれたのでした。
弥彦はこの父・通庸最晩年の子です。
御曹司は生まれながらのアスリートだった
そんな「鬼県令」の末子である弥彦は、名門の御曹司として恵まれた環境で育ちました。
しかも、アスリートとしての資質は抜群。
彼は、日本男子の平均身長が155センチ程度の当時、170センチをゆうに越える体躯の持ち主でした。
豚肉をよく食べる薩摩の人々は、幕末にあっても長身の傾向があります。薩摩の血を引く三島がかなり大柄でも不思議ではありません。
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この時点で、三島は大変有利でした。
親譲りの資質といえば、父・通庸は、殺人剣として恐れられる【薬丸自顕流】の腕前にかなりの自信を持っていました。
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そうした親譲りの身体能力が、弥彦の中でも開花したのでしょう。
生まれた時代も、ぴったりでした。
弥彦は「近代スポーツの申し子」です。
明治時代の日本は、西洋由来の近代スポーツ黎明期でした。
江戸時代までの修練としての武芸ではなく、純粋な娯楽と身体鍛錬を目的としたスポーツに、若者たちは熱狂的に飛びつきました。
もしも三島がもっと早くうまれていたら、このスポーツブームには出会わなかった可能性があります。
その様子は年長者を不安にするほどで、当時は「野球をすると馬鹿になる!」という「野球害毒論」なるものが、大真面目に主張され論争になったほど。
そんな時代に、三島は仲間たちとスポーツに出会い、のめりこんでゆくのです。
学習院時代には、野球部でエース兼主将。
ボート部でも一軍選手。
柔道講道館は二段。
乗馬と相撲も得意。
東大時代にはスキー術を修得し、更にはスケート大会にも出場する程に達者だったのです。
ウインタースポーツが出来ると言うのは、相当にスゴイこと。当時の日本はレルヒによるスキー技術が伝達される前のことです。
スケート競技も、普及しておりません。
そもそも道具が庶民には手に入らないわけで、お坊ちゃまだからこそ出来たのでしょう。
このあたり【道具がいらないから】と陸上を始め、足袋を履きつぶして苦労した金栗四三とは対照的です。
金栗は、五輪参戦の資金すらカンパでまかなっておりました。
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「天狗倶楽部」に入る
元気いっぱいで、スポーツ、中でも野球の人気の虜となった若者たち。
そんな中、自然発生的に野球の試合をするための団体「天狗倶楽部」が、明治末期に結成されました。
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日本初のスポーツレクリエーション団体であり、特に名簿もなければ、入会資格もありません。
リーダーは押川春浪(『いだてん』では、武井壮さんが演じます)であり、彼自身、どうしてこの団体ができあがったのかを把握していなかったようです。
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さほどに大らかな時代だったんですね。
スポーツ愛好青年団ともいえる【天狗倶楽部】でも、類いまれなアスリートである三島は人気の的でした。
そんな天狗倶楽部は、スポーツ復興のためにとある取り組みに挑みます。
五輪予選会に飛び入りで優勝
明治44年(1911年)、「オリムピック大會予選競技会」が開催されることになりました。
スウェーデンで開催される第5回ストックホルム国際オリンピック大会の代表選考会となります。
スポーツ振興に青春を賭ける「天狗倶楽部」がこれを見逃すはずもありません。
予選大会の会場となったのは、日本初の本格的なスポーツ競技会場である「羽田運動場」。
その建設に尽力したのが、「天狗倶楽部」のメンバーである中沢臨川(『いだてん』で演じるのは近藤公園さん)です。
中沢は大学卒業後、京浜電鉄に技師長として勤めていました。
当時の京浜電鉄は、現在の羽田空港のあたりに、なんと6万坪もの土地を所有していたのです。
しかし、使用予定がない。
中沢はこれに着目し、押川とともに京浜電鉄経営者に直談判。
なんとか説得して、1万坪をスポーツ競技場として整備できるよう説得するのでした。
京浜電鉄側としてはただの慈善行為ではなく、スポーツ観戦を目的とした乗客増加をみこんでのことです。
残念ながらこの競技場は、数年後台風で冠水してしまい、使われなくなってしまいました。
とはいえ、日本初の五輪選考会会場として、歴史に名を刻んだのです。
「天狗倶楽部」のメンバーである三島弥彦も、この予選大会に参加することにしました。
面白いのが選手ではなく、あくまで審判として、です。
そこで根っからのスポーツ好きの血が疼いたのでしょう。
なんと三島は、飛び入りで
100メートル走
400メートル走
800メートル走
に参加、そのまま優勝してしまったのです。まさにスポーツ好きの快男児といったところです。
こうして三島は、長距離走の代表・金栗四三と並んで、日本初の五輪代表となりました。
御曹司の三島は、金栗とは別の困難に直面しました。
金銭面での苦労はないものの、周囲の無理解に苦しめられたのです。
「たかが“かけっこ”如きのために何を考えているのだ、けしからん!」
エリート一族ゆえの無理解ですね。
悩みながらも、三島はストックホルムへと旅立つことになるのでした。
ストックホルム五輪に参加したが……
明治45年(1912年)。
三島は、総勢わずか四人でストックホルム五輪に参加しました。
選手は金栗と自身の二人だけ。
随行員合わせて四人という少数メンバーであり、彼らが日本初の五輪代表です。
日本選手は欧米選手と比較すれば圧倒的に不利であり、好成績は期待できません。
それでも次に望みを繋ぐため、スポーツの灯をともすため、彼らは参加したのです。
三島は入場の際、旗手をつとめました。
日本選手団のあまりの少なさに記者たちは憐れみすら感じたものの、その心意気はつたわりました。
ただし、現実は甘くありません。
競技当日。
短距離100メートル予選に出場したところ、アメリカの選手等と同組で走ったところ、いきなりトップに1秒以上の大差をつけられる予選敗退。
200メートル予選も最下位。
400メートルでは一次通過こそしたものの、右足の痛みにより敗退してしまいます。
精神的なプレッシャーもあったようです。
エリート育ちの三島は、ライバルに食らいつく雑草タイプの金栗とは違い、挫折を知らないゆえにメンタルがやや弱かったようです。
三島は大会後、金栗と雪辱を誓いました。
金栗は、競技中に脱水症状となって農家の家に迷い込み、棄権してしまったのです(後に◯年ぶりにゴールの表彰を受けますが……)。
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五輪後は金融マンとして一生を終える
次のベルリン五輪は、第一次世界大戦のために中止。
金栗はそれでもめげずに大正9年(1920年)第7回アントワープ大会、大正13年(1924年)第8回パリ大会に参加。
一方で三島は、五輪挑戦は一度のみとなりました。
彼は五輪翌年の大正2年(1913年)に帝大を卒業すると、兄・彌太郎のいる横浜正金銀行に入行。
金融マンとして一生を終えました。
そして昭和29年(1954年)、死去。
享年67でした。
金栗とは違って生涯をアスリートとして捧げたわけではない――。
それでもアスリート時代は華やかなスターで、青少年に圧倒的な人気を誇っていたのが三島です。
なお、金栗四三と並んで大河『いだてん』の主人公となる田畑政治(たばたまさじ)は、水泳競技の功労者となります。
田畑は1932年のロサンゼルス大会から水泳の参加を目指し、日本のために尽力し、戦後は、1964年東京オリンピックの開催にも漕ぎ着けるのでした。
詳細は以下の関連記事をご覧ください。
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【参考文献】
横田順彌(『快男児 押川春浪 (徳間文庫)』→amazon)
『朝日新聞100年の記事にみる〈7〉スポーツ人物誌 (1979年)』(→amazon)














