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孝明天皇/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

孝明天皇を知れば幕末のゴタゴタが超わかる!謎に包まれがちなその生涯&御意志とは?

更新日:

幕末の政局において、大きな動きをしており、影響もある。
にも関わらず、なぜか動向が追いにくい人物がいます。

孝明天皇です。

重要人物でありながら、なぜだか幕末のフィクション作品において登場シーンは多くない。
現在放送中の大河ドラマ『西郷どん』においても、西郷隆盛と共に尾上菊之助さん演ずる月照や、国広富之さん演ずる近衛忠煕は注目されるのに、彼らが天子様と呼ぶ孝明天皇の登場はありません。

しかしだからと言って皆無でもなく、過去の大河ドラマでは以下の作品に出演しています。

徳川慶喜(1998年)
・新選組!(2004年)
篤姫(2008年)
龍馬伝(2010年)
八重の桜(2013年)

歴史ファンとして、ここで気になるのが、『花燃ゆ』(2015年)をはじめとして、長州藩が主役の作品には出ていないという点です。

奇妙な話なのです。

幕末の長州藩士たちは、天皇を奉じて行動しているはずです。
それなのに、肝心要の、彼らが崇拝していたはずの天皇が姿すら見せないとは、どういうことなのでしょうか。

と、そこには複雑な理由がありまして。

本稿では、孝明天皇の生涯を追いながら、その辺の事情についても模索してみましょう。

 

光格天皇の孫として誕生

孝明天皇は天保2年(1831年)、仁孝天皇の第4皇子として誕生しました。

母は正親町実光の娘・雅子(新待賢門院)。
諱は統仁(おさひと)、幼称は煕(ひろ)宮といいます。

江戸時代の天皇というとおとなしい印象を受けるかと思いますが、必ずしもそうではありません。

孝明天皇の祖父にあたる光格天皇は活動的で、朝廷の権威復活に尽力した人物でした。
徳川幕府のもと、朝廷公家は無力であったと思われがちですが、実は幕末に向かって徐々に存在感を増していました。

国学の普及も、後押しすることになりました。

光格天皇/wikipediaより引用

孫である孝明天皇も、祖父同様、じっとしているだけの人物でありません。

天保6年(1835年)、儲君(皇太子)とされ、天保11年(1840年)には立太子の儀。
さらに弘化3年(1864年)に父天皇の崩御のあとをうけて践祚の儀をあげ、弘化4年(1865年)に即位を果たしました。

 

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攘夷を求める孝明天皇

孝明天皇の存在が、歴史の中で大きく現れてくるのが、嘉永6年(1853年)の黒船来航以降です。

ペリー来航/wikipediaより引用

このとき幕府は、黒船来航に関して事前に情報を察知しており、
【開国しかない】
という結論に至りました。

非常に合理的な判断でしたが、そこまで事情を把握しているのは、幕臣や蘭学者、異国船の接近にさらされていた薩摩藩主など、ごく一部の者たちです。
歴史の授業で印象付けられるような、幕府が外国に好き勝手やられた――とか、そう単純なものではありません。

ただ、当時の日本中は攘夷ムードが浸透しておりましてひたっていました。
幕府があまりに外国事情を隠蔽し過ぎたことも、マイナス要素だったのかもしれません。

ともかく幕府は、アメリカと日米修好通商条約を結ぶことを決め、大名に伝達すると反対意見が噴出。
困り果てた結果、朝廷の権威に頼ろうとしました。

このとき、幕府の老中・堀田正睦や、幕臣・岩瀬忠震らは知らなかったのです。
孝明天皇は激しい攘夷派であり、かつ意志強固であることを……。

結果的に、この朝廷への運動は大失敗でした。

日米修好通商条約の真実と岩瀬忠震~ハリスを圧倒した凄腕の交渉人が幕臣にいた!?

幕府の屋台骨を揺るがす遠因は、朝廷に意見を求めたことがあげられます。

孝明天皇は、ひたむきな攘夷を求め、開国に理解を示しませんでした。
老中・堀田は勅許を断念する一方で、井伊直弼は勅許なしの条約調印をしてしまいます。

そしてこの先、政局は泥沼に突っ込んでゆきます。

安政の大獄
桜田門外の変
皆さんご存知の大事件が勃発。
ここまで事態がこじれたのは、我が子・一橋慶喜を次期将軍にしたい水戸の徳川斉昭が調停工作を行い(将軍継嗣問題)、「戊午の密勅」を水戸藩にくださせたことも、背景としてありました。

徳川斉昭/wikipediaより引用

二世紀近く、政治に関与できなかったはずの朝廷と公家。
その彼らに力があることがハッキリを示されたのです。

しかし、それはよいことだったのでしょうか?

京都から動かず、外国事情を仕入れることもできず、政務から遠ざかっていた皇室と朝廷。
対外的な知識と実務能力に乏しく、それでいて陰謀は得意という……。

彼らは幕末という局面で、大きな爆弾と化してゆくのでした。

 

孝明天皇の意志

ここで注意しておきたいのが、
【孝明天皇に倒幕の意志は全くなかった】
という点です。

孝明天皇は、確かに攘夷派でした。
が、それは=倒幕ではなく、あくまで幕府と力を合わせて協調路線を歩むというもの。

彼は穏健派で、攘夷にかこつけた戦争や暴力を嫌っていたのです。

しかし、過激な尊王攘夷派はそうではありません。
天皇は、異人に弱腰の幕府を倒すことを望んでいるという前提で、様々な行動を起こします。

幕末の政局が混乱しやすくなるのは、
「俺たちは天皇の意志を奉じて行動している!」
と行動を起こす人々が、実はその意志とは正反対の行動を取っていることが頻発したからです。

しかも、孝明天皇の意志に背いていた人々が勝利をおさめたため、そのことが隠蔽されがちであり、事態をさらにややこしくさせています。

これこそが、長州主役の大河に孝明天皇が出てこない理由でもあります。

 

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京都を中心に混乱する政局

1860年、桜田門外の変というテロリズムが勃発。

桜田門外の変を描いた 月岡芳年の錦絵/wikipediaより引用

幕府の権威がジリジリと低下する中、京都はさらに存在感を増してゆきました。

日本各地から尊皇を唱える者たちが集い、不穏な空気が醸成されるのです。

幕府内でも分裂が起こります。
幕府閣僚が江戸と京都に滞在するようになり、彼らの間で意見がたびたび割れるようになりました。

江戸の閣僚たちは、徐々に西洋人たちにも慣れてゆき、開国こそ当然であると思うようになります。
彼らにすれば、京都の意見は古くさく、国家の一大事をふまえていない、的外れなものでしかありません。実際、攘夷などが可能でないことを長州や薩摩を筆頭に痛感させられています。

一方、京都の閣僚は、どうしても朝廷や天皇の意志を尊重せざるを得ないわけです。

それだけでなく公卿も意見が分裂しておりました。
倒幕すら念頭においた長州藩と親しい公卿らは、過激な攘夷を後押しするような工作に手を貸しました。

彼らは天皇とは距離があり、孝明天皇自身の考えを知る機会は少なかったようです。
しかし、たちの悪いことに彼らは勅(=天皇の言葉)を偽造できてしまいました。

これも幕末混乱の一因を招きます。

なぜ長州藩は、この時期に無茶苦茶な攘夷を繰り返したのか?
その答えのひとつに、文久年間に以下のような流れがあったからです。

長州藩が「奉勅攘夷」を行う

味方の公卿がそれに対して「褒勅」を出す

「天皇にも褒められたし、攘夷をもっとがんばるで!」

長州藩が「奉勅攘夷」を行う

当然ながらこれには大問題がありまして。
孝明天皇は「長州藩に攘夷をしろとは言っていないし、それを褒めたおぼえもない」のです。

結果、天皇の意志がようやく発揮されたのが、
「八月十八の政変」
禁門の変
でした。

簡単に言えば長州藩が、会津藩と薩摩藩に追い出されるというもので、詳細は以下の流れをご覧ください(禁門の変は西郷隆盛の初陣でもあります)。

禁門の変(蛤御門の変)で西郷隆盛が初陣!孝明天皇の意図を探れば事件の真相が見えてくる

 

孝明天皇の意に沿う「一会桑」政権

長州藩が抜けた京都の政局は、大きく動きます。

「禁門の変」が成し遂げた影響は、長州藩の失墜だけではありません。
これほどの大きな政変が起こり、かつその中央にいたのが孝明天皇であったということは、幕府権威の低下をますます深刻化させるわけです。

分裂していた政局の重みは、京都側が増して江戸側が低下することに繋がりました。

そんな最中、孝明天皇が信頼を寄せたのは、以下の人物および勢力でした。

・将軍後見職:一橋慶喜
・会津藩主・京都守護職:松平容保
・桑名藩主・京都所司代:松平定敬

この三者を「一会桑政権」とも呼びます。
しかし当時そう呼ばれていたわけではなく、あくまで後世に付けられた呼び名です。また、三者の意見が必ずしも一致していたわけではありません。

自己の権勢を高めるために、天皇を利用したい一橋慶喜。
天皇への忠誠心一筋で、政治的な駆け引きには疎い松平容保。
兄である松平容保に付き従う松平定敬。

「同床異夢」と言いますか。三人の向いている方向は、必ずしも一致しないのです。

江戸の幕府閣僚のみならず、他藩も反発します。

孝明天皇があまりに松平容保贔屓が激しかったため、しらけムードすらあったようです。
この思いは他藩だけではなく、国元に残った会津藩首脳からも懸念が表明されています。

松平容保/wikipediaより引用

会津藩の京都守護職就任は財政的負担が大きく、危険視されていました。
そのため当初から藩首脳部から反対論が噴出。
容保が孝明天皇の寵愛を受け、プレッシャーがますます強まってゆく中、藩首脳部は解任と帰国すら願い出ます。

しかし、容保はそれを拒んだのでした。

 

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シラけムードの「長州征討

孝明天皇自身の意志を反映して、取り組むことになったのが長州への処分です。

しかし、世間からみると、処分は天皇の意志によるものというよりも、
【会津藩vs長州藩の私的な怨恨】
が由来とみなされたようです。

結果、「長州征討」は、やることがあまりに中途半端な不完全燃焼となってしまい、かえって幕府の権威を傷つけます。

「あのとき外国の支援を受けてでも、長州を叩き潰しておけば!」
「そもそも、やるんじゃなかった」
と、どちらにせよ中途半端だったと散々な評価を受けております。

なぜこんな不完全燃焼に終わったのか?

というと、やる気があったのが孝明天皇とその周囲だけであった、ということも大きいでしょう。
責任者の西郷隆盛は露骨にサボタージュしておりますが、薩摩藩はそのシラケムードの筆頭におりました。

かつて薩摩藩は、会津藩と並んで「八月十八日の政変」や「禁門の変」を戦っております。
しかし、「一会桑」から外されてしまい、政治的疎外感を味わっていました。

そんな薩摩藩が目を付けたのが「朝敵」認定されている長州藩です。
犬猿の仲同士で手を組み、目障りな「一会桑」打倒を目指そうというもの。

こうして手を組んだ同盟が「薩長同盟」でした。

当初の目的は、
・第二次長州征討の際には、薩摩側が幕府側に圧力を与える
・長州が戦闘に勝つことがあれば、薩摩側が斡旋して朝廷に和議を持ちかける
・幕府側が撤退したら、薩摩の斡旋で工作を行い、朝敵認定取り消しを行う
・一会桑側が妨害してきたら、武力行使も辞さない
というもので。
この時点で倒幕は視野に入っていないわけです。

そしてこの「薩長同盟」が成立した慶応2年12月25日(1867年1月30日)。
孝明天皇は崩御しました。

死因については、毒殺説を含めてここでは取り上げません。

むしろ重要なのは、毒殺説がささやかれるほど、特定の勢力にとっては障害であったという点ではないでしょうか。

孝明天皇は、「一会桑」にとっては扇の要のようなものです。
結束は崩れ、薩長側の勝利へと情勢は向かってゆきます。

政治的な駆け引きは苦手とし、孝明天皇の深い信任を頼りにしてきた松平容保にとっては、引き返すことのできない地獄への道が開かれました。

 

不都合な史実

孝明天皇というのは、幕末史を語る上において、重要であるにも関わらず、不都合な存在です。
長州藩はじめ、尊王攘夷派は、自分たちは天皇のために働いていると掲げていました。

しかし、彼らの過激な行動は孝明天皇の意志からはほど遠いもので、かえって天皇の不興を買っておりました。

徳川慶喜の行動は徹頭徹尾自己利益への誘導であり、孝明天皇への忠義は感じられません。

松平容保は、胸をはって自分こそが孝明天皇への忠義を果たしたと言える資格があるかもしれません。
しかし、彼の天皇への忠義は、幕府の権威低下を招きました。

むろん、彼が意図したものではないでしょうが、徳川家への忠誠心第一であったはずが、どこかで何かを間違えた可能性は否めません。
孝明天皇へ忠義を尽くした結果、会津のみならず奥羽を巻き込む戦乱を招いたとも考えられでしょう。

確かに、彼にとって【義】を曲げることは考えられなかったことあります。

そしてその【義】がもたらした、主に東北の混乱と荒廃について、強く本人に追及するのは酷というもの。
彼の後半生は、慰霊と悔恨の日々であったのですから。

 

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実は長いようで短い150年

後世の我々が声高にしても詮無きことですが、幕末に置いて孝明天皇の意見は無視することが正解でした。

日本が窮地を切り抜けるためには、攘夷というその悲願は避けるしかありません。
幕末の政治史において尊ばれたはずの存在は、誤った思想ゆえに、障害となっておりました。

このあたりが、日本の近代史を学ぶうえで、最大の障害になっているのではないかと思うのです。

明治維新とは、天皇を掲げた戦いでありながら、先帝の意志は無視して突き進んでいる――そんな矛盾があります。

1868年から今年で150年。
実は長いようで短い。
記念すべき年でも、なかなか機運が盛り上がってないように感じられるのは、日本中が納得できる理屈がないからかもしれません。

孝明天皇の意志を尊重すべきだったか?
よりよい国作りを尊重すべきだったか?

それぞれに正義のあった明治維新の残響は、未だ消えていない気がしてなりません。




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文:小檜山青

【参考文献】
江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 (講談社学術文庫)』家近良樹
国史大辞典

 



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