光る君へ感想あらすじレビュー

光る君へ感想あらすじ

『光る君へ』感想あらすじレビュー総評 まひろは難ありな私を生きてみせたのだ

2024/12/24

いざ始まると、あっという間に終わってしまった大河ドラマ『光る君へ』。

今回、総評レビューをまとめるにあたり、昨年の記事を読み返してみると、我ながら随分と悲観的だったなぁ……と改めて思わされました。

例えば2023年の大河ドラマ『どうする家康』の第39回サブタイトルは「太閤、くたばる」です。

「くたばる」とはあまりにも稚拙な言葉遣いであり、こんな調子ではむしろ「大河、くたばる」ではないか……と暗澹たる気持ちにさせられたもの。

そんなハンデを背負いながら、初めてだらけの平安時代を描かねばならない2024年は、本当に大変だったはずです。

しかし、その苦労は報われたように感じます。

12月15日の第48話で完結を迎えた『光る君へ』は、視聴率ワースト2を記録しながら、ネット上での記事や感想は穏やかな空気に包まれています。曖昧な表現で申し訳ありませんが、このやさしさこそが奇跡のよう。

制作サイドも、ファンの皆さんにも、手応え見応えがあったということでしょう。

今まで大河の視聴者層ではなかったファンを増やした。

視聴率ではなく、視聴者数を計測する時代に相応しいよい結果を残した。

関連書籍の売り上げは好調で、12月に入っても新刊が販売される異例の高反応があった。

こうした結果を残したからには、十分な成功を感じさせます。

戦国三傑の一人を主人公とし、ジャニーズ関連の俳優を複数名投入しながら失敗した昨年と比較すると、今年がいかに革新的であったか。

2023年は「シン・大河」だと喧伝する記事まであったものですが、新基軸大河として成功をおさめたのは明らかに2024年でした。

💟 『光る君へ』総合ガイド|紫式部の生涯・宮中・平安文化を網羅

 


良識が世界基準に追いついた2024年

2024年は平安時代中期という、初挑戦にして大河最古の時代を扱いました。

過去の蓄積がないからには、セットや衣装を一から作らなければなりません。

そういう難行をやってのけただけでなく、大河ドラマもようやく世界基準に近づいたのではないかと思います。

セットやクオリティが海外ドラマと比べたら格段に劣ると失笑する方はおられるでしょう。予算不足は指摘されることではあります。

しかし、クオリティとは見栄えだけで判断されるものではありません。

レイティングやコンプライアンス面、題材面こそが重要。

まず主人公やテーマの人選ですが、五輪に絡んだ2019年や新札を見据えた2021年は「プロパガンダ」扱いされても仕方のない内容だったでしょう。

むしろ世界的にも珍しい平安時代の女性文人の方が、主人公に適していた。

フェミニズムや多様性と向き合った作劇も、実に2024年らしい取り組みといえます。

『虎に翼』と重なる展開が多かったものの、狙ったわけではないようで。

つまりは時代に追いついたドラマなのでしょう。

 


文学方面から大河ドラマへアプローチをするにはどうすべきか?

文学方面からアプローチした大河ドラマという点でも、2025年ともども本作は極めて意欲的かつ斬新です。

朝の連続テレビ小説『スカーレット』を手がけたこのチームは、女性クリエイターの人生を描くことに強い意欲があると思えます。そうした実績があってこそ、異色大河を実現できた。

それを踏まえると、以下のような意見はいかに的を射ていないか、ご理解いただけるでしょう。

「『源氏物語』の方がおもしろい。これをそのままドラマにした方がいい」

「劇中劇として『源氏物語』を挟んだ方がいい」

こうした意見を見かけ、私の脳内ではこんな妄想が駆け巡りました。

とある会社に勤める女性社員は、毎週『光る君へ』を楽しみにしてきた。配信を含めて何度も見返し、放映後は「光る君絵」を見るのも楽しみだ。

そんな彼女の悩みは、何十年も大河ドラマを見ているという男性上司。

月曜になるとニチャニチャした冷笑を頬に浮かべつつ、こう貶してくるのだ。

「なにが“みちまひ”だよw」

「あんな安っぽいメロドラマにするなら、まんま源氏やればいいだろw」

「韓流ドラマみたいw」

こうした意見に、反論は山ほどある。でも、上司相手にそんなことで突っかかれないし、ひきつった笑みで「そうなんですね」と受け流すしかない。

合戦がないなんて本当に大河か。そう上司がぼやいていたから【刀伊の入寇】では満足するかと思えばこう。

「あんなの別にいらねえしw」

百人一首に出てくる紫式部の歌が出てこないと言っていた。最終回に出てきたことで見事な回収だと彼女は満足していたのに、こう。

「とってつけたようにやられてもねw」

そしてこう吐き捨てた。

「ったく、あんなもんしか作れねーなら大河なんて看板捨てちまえばいいんだよw」

昨年の大河ではないけど、こんなとき、どうする?

ちょっと妄想が捗りすぎてしまいましたが、論点を整理しますと。

どんな状況でも難癖をつける人は一定数います。

『源氏物語』および平安文学ファンの間口を広げるのであれば、物語そのものよりも制作時の政治的背景をドラマにした方が良いと私は確信できています。

それを『光る君へ』は証明したのです。

 

『源氏物語』ドラマ化よりも巧みな手法

私なりのその点をまとめてみましょう。

・光源氏は誰が演じるべきか?

日本文学史上最高の美男子とされる光源氏。

往年の市川雷蔵のように、誰もが納得する美男でなければ、誰が演じようと不満が生じかねないとも言えます。

映画版において女性の天海祐希さんが光源氏を演じたことは、現実世界の男性では演じられないという意図もあったのかもしれないとすら思います。

これをクリアするにはどうすべきか?

『光る君へ』では答えが用意されています。

このドラマには平安装束を身につけた俳優が大勢登場します。見る人ごとに、自分が一番相応しいと思う俳優を、脳内で光源氏とすればよいのです。

青年期、中年期以降と分けてもよし。外見と声を分けてもよし。その人ごとにバリエーションが生まれます。

そんな自分の考える光源氏像をファン同士で語り合えば、盛り上がることでしょう。

・『源氏物語』を映像化して本当に魅力的になるかどうか?

古典文学の傑作とは、同時代の他の作品と比べて優れている。長い年月と批評を経て、揺るぎない価値を確立していると言った特徴があります。

そうはいっても、価値観は時代ごとに変わります。

当時の読者は受け入れられても、現代人がそうできるかどうか、そこは別の話。

菅原孝標女は、『源氏物語』を熱狂的なまでに求めています。

あれほど情熱を注いだのは当時は物語の入手そのものが困難であり、娯楽が少なかったという事情もあります。

江戸時代ともなると、『源氏物語』は和の心を代表する傑作として、国学者から高評価を受けています。

一方で「こんなふしだらな物語に憧れるのはいかがなものか?」という評価も出てきます。

近代以降の論者となると、堂々と「作品としてはよい。しかし、光源氏は好きなれない」と語るようになります。

今はそれこそ「光源氏と薫はじめ、あの作品の男君はどいつもこいつも最悪!」と酷評されて当然と言える。

性犯罪者としか言いようのない悪事も為しています。

性格も陰険極まりない。その陰険さを紫式部も理解しているのでしょう。地の文で突き放すように呆れている点も、『源氏物語』の特徴といえます。

そこまでふまえて、あの世界を映像化して、現代のレイティングを通過できるとは思えません。視聴者が好意的に捉えられるとも思えません。

『光る君へ』の男君も、いかがなものかと思われる言動をする人物はおります。

しかし、それでも光源氏や薫の思い出すだけで気分が暗澹としてくる行為の数々と比較すれば相対的にマシ。

原点が毒を帯びているからこそ、むしろアク抜きをして食べられるようにしたのが『光る君へ』なのでしょう。

当然のことです。紫式部は、千年以上超えてドラマ化されることまで考えて執筆できたわけでもありません。

現代にも通じる要素と、平安時代ならではの美を抽出して映像化するほうが賢いやり方ではないでしょうか。

・『源氏物語』を映像化していたら、かれらの姿が見られなかった

『光る君へ』は、紫式部と『源氏物語』をテーマとしていながら、別の作品のファンも惹きつけています。

『枕草子』ファンです。

あの作品に登場する定子サロンを再現する場面もしばしば見られました。「香炉峰の雪」や「青ざし」の場面は感動的だった。

定子も、ききょうこと清少納言も、イメージ通りの姿を見せてきたのです。

さらには、あえて清少納言が描かなかった定子の悲運まで描かれ、『枕草子』の補完を為しているともいえる。

『枕草子』は明るい世界観が貫かれているためか、清少納言はパリピで軽薄な女性だという悪評があったものです。

しかしそうではなく、敢えて暗い影を描かなかった姿も『光る君へ』では描かれました。『枕草子』ではやんちゃで笑い上戸だった隆家が、苦難を経て成長する姿まで描かれています。

定子の遺児である敦康親王に対して、道長があまりに冷淡である姿も回避していない。

実は中関白家に対するフォローが実はしっかりしていたのが『光る君へ』の長所といえるでしょう。

清少納言は軽薄なだけではないと説明する上で用いることのできる、良心的な作風ではないでしょうか。

『枕草子』では理想的な貴公子である藤原伊周が、呪詛人形噛み締め怪人になってしまったことに不満がある方も、当然おられるはず。

それについては何も申すことはありません。それはその通りだと思います。

・『源氏物語』では消えてしまう人々を描く意義

『源氏物語』は、当時の日本人ではごく一部でしかない、皇室と上流貴族しか扱っておりません。

作者である紫式部が属する中流以下の貴族ですら、背景でしかない。そういう上流階級だけを描く歴史劇には、不備があるとされます。

例えば誰かに「どの時代に生まれ変わりたい?」と尋ねたとしましょう。

返ってくる答えは、平安時代で和歌を読んで暮らしたいとか、戦国時代で一国一城の主になりたいとか、そういうお気楽な回答が戻ってきます。

すべて上流階級に生まれることを前提とした発想なんですね。しかしそうでなければ、どんな時代に生まれたって、即座に逃げ出したくなるほど過酷な生活が待ち受けています。

『光る君へ』では、そうした庶民の苦悩を敢えて見せるような人物が登場しました。

オリジナルキャラクター、いわゆるオリキャラと呼ばれる者たちですね。

直秀たち散楽の一行は、護送中に検非違使の判断一つで殺された。

一条帝の即位を妨害するため、庶民の子どもの生首ならば簡単に拾って来られる状況が描き出された。

疫病にかかったたねとその家族は、なす術なく呆気なく命を落とした。

極め付けは【刀伊の入寇】の襲来で落命した周明でしょう。

浜辺に置き去りにされたままの彼の遺骸を、ああもじっくりと映す必要性はあったのか? その意味は何か? 考えてみることも大切なことでしょう。

周明は対馬の漁師の子で、口減しのために父から海へ捨てられました。後に対馬へ行っても、誰も彼のことを覚えていません。いわば忘れられた存在しない人です。

それをまひろも、視聴者も「忘れえぬ人」だと思うようになった。

歴史の中には周明のような人物が大勢いるのです。

理不尽な暴力で命を落としたまま、忘れられてしまった存在。

まだ国境の概念もあやふやだったころ、国と国の間でどちらにも属さなかった人。

そういう記録に残りにくい存在に対し、あえて血肉を与えた意義は実に大きいといえます。

歴史学の捉え方も、時代によって変わってきます。2020年代、こうした歴史の間に消えてしまった視点での問いかけが重要視されています。

こうした人物たちを「ウケ狙いのオリキャラw」と冷笑するのか。

それとも「稗史目線で歴史を問い直す意義」と見なすのか。

捉え方は人それぞれ。

『光る君へ』は、『源氏物語』と大河ドラマそのものを、現代人に受け入れられるよう作り上げた良心的な作品だと考えています。

 


知識を活かし、現実に沿わせ、間口を広げる

本作に関してはあげられる不満がなかったわけではありません。

ただ、その意見を見ていくと、大河ドラマのフォーマットでは実現が難しいと思われる意見もありましたし、あまりに高度と思われる要求もありました。

しかしこうした要求はいつだってどんな作品だって付き纏うもの。

大河ドラマは、歴史に幅広く興味を持ってもらうために、あまりに難易度をあげてもそれはそれで問題はある。

一般観光客向けホテルにおける、バイキングのようなものですね。

京都を知り尽くした、知る人ぞ知るような味を求める客からすれば、まるでお子様向けだと鼻白んでしまうようなメニューが並ぶものであります。

知識にせよ、教養にせよ、現代社会や現実に合わせ、柔軟に適用せねばならない。

『光る君へ』では意図的に避けていると思われる部分もあります。

紫式部は仏教に救いを求めていたと思われ、『源氏物語』のフィナーレを飾る女君の浮舟は、出家により救いを得ています。

しかし、まひろはそうしません。

崩れた鳥籠が象徴するような、自由に向けた飛翔。

そして書くことこそが水や米のようなものだと、示しているように思えます。

これも現代社会を生きる女性たちや、彼女たちを救うフェミニズムを踏まえれば私は腑に落ちます。

職場で容姿や年齢をからかわれた。正月に田舎に行くと、男たちは女にばかり家事をやらせようとする。

そう愚痴をこぼしてくる女性がいるとして、こう助言して受け入れられるかどうか、想像してみてください。

「そういうときは仏の教えよ。写経を始めれば心が落ち着くわ」

まあ、効果がないとは言い切れませんね。メンタルヘルス向上には役立つかもしれません。

しかし、個人の心の安寧を得ることと、問題解決は別問題。

「ハラスメントを相談窓口に訴えて、部署移動ができないか聞いてみたらどう?」

「そんな田舎に無理して帰省しなくていいよ。年末年始でも営業しているいいブックカフェあるけど、行ってみたらどう?」

「そういう悩みはあなただけのものでもないよね。ネットで書いて、問題提起してみたらよいかもしれない」

このあたりが実用的ですよね。

『光る君へ』は、そういう進歩した解決策を模索している作品ではないでしょうか。

もちろん、その部分が受け付けない人もいるとは思います。

それこそ、私の脳内劇場に登場したおじさんからすれば「またwww」と笑ってしまうような話なのでしょう。

しかし、人間とは、誰とでも分かりあえるものではありません。

話が通じない人とは、最低限の接触で済ませるのも問題解決の一つの手です。

 

清流のようなファンダムは『光る君へ』の紛れもない美点

大河ドラマや朝の連続テレビ小説のオタクやファンダムには、時折、激しく暴力的な言動をされる方がいます。

集約すると以下のような文言ですね。

「誰かが好きな作品を貶すなんてしてはいけない。私の推しを貶されたらすごく傷つく。だから私はそんなことは絶対にしない。オタクってそういうものでしょ! あんたがしているのはそういうことなんだよ!」

自分では絶対にしないと言いながら、その直後に誰かの好きな作品を罵倒し始める。それも延々と。

清々しいほどの嘘に呆れ、黙って聞いているしかありませんが、まぁ、人間そんなものかもしれません。

オタクを自認する人ほど、自分の見方が正しく、他の味方は受け付けられなくなったりする。

そういうこともあり、私はファンダムの状況をつぶさに観察しているのですが、今年の大河ドラマファンダムは、澄み切った流れのようでありました。

ファンダムも含め、集団が攻撃的になる要素として、以下のようなものがあげられます。

・他集団に対する優越感

・自分たちは不当な扱いを受けたという被害者意識

この点を満たすと、どんな無害な集団でもだんだんと悪化してゆきます。

試しに2023年大河ドラマのタイトルと「紫禁城」で検索をかけてみてください。

「なぜ、その2つの単語で検索なのか?」というと、それだけ批判が多かったという証左であり、そうして批判に対して、口汚く罵倒するファンダムの存在が確認できます。

こうした現象からは、

・「批判する側が愚か」だという優越感

・「バカがケチをつけたせいで自分の好きな作品が貶められた」という被害者意識

が、見てとれます。

他の大河ドラマでもあります。

『平清盛』は、当時の兵庫県知事が苦言を呈したことが「被害者意識」に結びついたところがあります。

『いだてん』は、『あまちゃん』の再来でヒットするという楽観的な報道が放送前には多くありました。

テーマであるオリンピックはマスメディアにとっては書き入れ時となるビッグイベントであり、それを踏まえても、ヒットしてもらった方がありがたいという相利共生関係もあったのでしょう。

それが失速したことから、ファンダムが何がなんでも褒めようと先鋭化したように思えます。

こうしたファンダムは、大河ドラマの話題になると、該当する作品と関係ない話でも、

「でも私は『いだてん』が好きなんだよね!」

という感じで突如話をふったりする。

誰かがちょっとでも該当作品を否定する空気をかぎ取ると、

「俺の大好きな『平清盛』を悪く言われて黙っていられるわけないやんw」

と、話題に割り込んできたりする。

こういうことをされると、作品にとってはかえって逆効果でしょう。

「じゃあ見てみようかな」とか「そういえば傑作だったね」なんて結論になる可能性は極めて低く、むしろ「めんどくさくて、見る気が失せるわー」となってしまうでしょう。

結果、逆効果でしかありません。

私は大河ドラマそのものより、こうしたファンダムの先鋭化が問題だと考えています。

作品そのものによい点があるにせよ、ちょっとでも疑問を口にしただけで、それをとどめにくるファンには疑念を覚えます。

例えば、私のこうした指摘を読んでいて、体の奥からカーッと怒りがこみあげてきたり、コメント欄やSNSで罵詈雑言でも叩きつけてやろう!と思ったとしたら、その怒りこそがファンダムを濁らせる毒の正体なのです。解毒をオススメします。

では『光る君へ』のファンダムはどうだったか?

というとその空気感は清涼で、成功したとの評価が定まりつつありますので心配していません。

誰かから「視聴率ワースト2www」と嘲笑われたり、「みちまひwww バカじゃないのwww」と煽られたりしても、柳に風と受け流すはず。

清少納言は「冬はつとめて」と書き記しました。

あれはあくまで彼女のセンスで冬は早朝がよいものだと感じたままに書いただけです。

もしも彼女が、「冬はつとめてだって言ってんだろ、オラ、起きろ!」と周りの女房を叩き起こしていたら、ただの迷惑な人でしょう。

自分の趣味を押し付けることはただの「にくきもの」。

好みは人それぞれと受け流すことこそ、雅であると、『光る君へ』を好きな方にならご理解いただけると思います。

 

まひろは嫌われかねないヒロインだったのに

ここまで書いてきて、私個人としてはさぞかし『光る君へ』を愛しているだろうとみなさんお考えなられたかもしれません。

しかし、私には疑問がありました。

まひろに共感したり、応援しているというコメントを読むと、内心「本当に?」と眉間に皺が寄ってしまっていました。

本当に共感や応援したいと、そう思ったのでしょうか?

まひろと友達になりたいですか?

道長のようにソウルメイトになれますか?

倫子のように、ぬけぬけと夫の心まで奪っておきながら黙っていたまひろを、あなたは許せますか?

あんな辛辣なコメントをされておいて、ききょうのように「物好きな!」と笑顔でつきあえますか?

これは『虎に翼』の寅子やよねについても同じことを思ったものです。

性格的にここまで難ありな主人公、しかも女性が許容されるなんて、世の中、実は変わってきているのではないか? と、思ったものです。

今までの大河ドラマには、主人公補正で人格者扱いにされているけれども、分裂していて無茶苦茶、恥ずべき偽善者としかいいようのない人物も時折いました。

そういう作品では、歯の浮くようなセリフで主人公を褒めるもの。作っている側は本当にこんな人間を善良だと言いたいのですか? 倫理は大丈夫ですか? そう感じていたものです。

しかし、作り手自身も、まひろの性格がおかしいことは理解している。

戸惑いつつ、こんなヒロインで大丈夫かと思いつつ、前に進んでいたことがわかります。

例えば大石静さんが吉高由里子さんに送ったメッセージには、こんな性格のヒロインから、よくぞ毒を抜いてくれたと感謝する意図のことが書かれていました。

最終回を迎えても、作中の人物はまひろの人格に対して必ずしも肯定的ではありません。

道長は「手厳しいな」と評する。

彰子は「藤式部ははっきりしている」という認識。

ききょうは「物好きな!」と驚き呆れている。

賢子は「母上にも友達がいたんだ」と言っている。賢子は以前、「母としては失格」という旨のことを断言していました。

女としてだとか。良妻賢母失格だとか。

そういうことでなく、人として決定的に何かがずれている。それを受け止めるしかない。そう悟りを開いたようにすら思えます。

問題のあるヒロインが己を曲げてでも社会に屈するのではなく、周囲が受け止める。そんな大転換がなされているように思えます。

 

大河ドラマに漂うミソジニー

まひろの性格が変だと思うだけに、このドラマが嫌いな人の気持ちも理解できなくもありません。

ただでさえ、大河ドラマファンダムにはミソジニー(女性嫌悪)が根付いています。

・女性主人公

・女性脚本家

・女性の好みに合ったイケメンが多い。

こうした要素が揃うと「スイーツ(笑)大河」というインターネットスラングが飛び交うことはお約束でした。

ネット流行語大賞の銀賞に選ばれたのは2007年のことです。

当時、隆盛であった匿名大手インターネット掲示板は、ミソジニーの空気が強いものでした。

そうした時代と重なったためか、女性向けでありながら品質が低い大河ドラマは「スイーツ(笑)大河」と見なされ、いくらでも叩いてよい作品扱いをされました。

代表例はこのあたりでしょう。

2009年『天地人』
2011年『江 姫たちの戦国』
2015年『花燃ゆ』
2017年『おんな城主 直虎』

「スイーツ(笑)大河」と言われずとも、視聴者にとって生意気であるとみなされた女性登場人物も、理不尽な批判にさらされます。

2013年『八重の桜』の八重

「人殺しを大河の主役にするな」という批判。男性主人公ではいくらでも殺人経験者がいたのではないか。癒し系の女優ならば、もっとかわいいキャラにすべきだ、など。

2016年『真田丸』のきり

「うるさい」など。前半は出番があるだけで叩かれるほど。

2020年『麒麟がくる』の駒

「愛人でもないくせに、将軍の義昭に要望するなんて図々しすぎる」「駒のいるせいでドラマとして決定的な欠点がある」「駒のいるせいでファンタジーになっている」など。

特に『麒麟がくる』についていえば、あの作品のアンチはほぼ駒の悪口しか言っておりません。

言語化しにくい、不都合な嫌う理由があったのかもしれないけれど、共感を得づらいから駒にぶつけているのではないか?と思いました。

放映時前半は信長を批判する意見も目立ちましたが、後半に向かうにつれ、それもできなくなっていった。だからこそ、駒に集中しているのではないだろうかと推察したのです。

さらに、駒叩きに執心しているユーザーが、大河ドラマ以外で言及している発言も分析すると、謎は解けました。

要するに、ミソジニーです。

男性は言うまでもなく「名誉男性」的な思考に染まった女性も、要約すればこんな感情から駒を憎んでいるのだろうとみえてきました。

必ずしも恵まれていない家庭環境に生まれるも、努力を重ねて技能を身につけた。聡明であり、男性がいるべき現場に携わっている。そんな苦労しつつも成功した女性。自分の意見を言う女性たちを、彼らは憎んでいました。

女性研究者、女性政治家、女性作家、グレタ・トゥーンベリさん、など。

彼らは女性でもエリートであったり、セクシーさをアピールするような女性には攻撃的ではありません。

そのせいか「俺のどこにミソジニーがあるんだ!」と、お気に入りのグラビアアイドル水着画像を掲げてきそうな雰囲気もあります。

このことを確信できたのは、典型的な駒アンチからのリプライでした。

その人は「帰蝶様は評価している、駒ちゃんは嫌いだけど」という内容を返信してきました。

斎藤道三の娘であり、織田信長の妻である帰蝶には「様」をつける。

一方で医師として独立し、成人しているにも関わらず、駒のことを「ちゃん」付けで呼ぶ。

腑に落ちる話です。

社長の妻や娘には丁寧に接しても、部下や派遣社員にはセクハラをする。そんな男性心理はこうしたものかと納得できました。

往年の大河ドラマを褒めるファンは、しばしばこういうことも言い出したものです。

「昔の大河は、“おなごは黙っておれ!”と言うからいいんだよな〜w」

こういう昭和の大河ドラマは、物語背景の当時にあった女性の権利を過小化していることもあり、問題もあったものです。

こうした言葉を聞くと、ジェンダー視点での歴史見直しは喫緊の課題だと掴んできたものでした。

 

ミソジニーを超越する

こんなミソジニーがファンダムの共通意識となりがちな大河ドラマで、不明点も多い紫式部を扱う。

しかも脚本家はベテランで実力が十分であるとはいえ、女性の大石静さんである。

それを踏まえると、非常に心配でもありました。

案の定、発表記者会見で大石さんが語った言葉が大仰におもしろおかしく語られだしました。

放送開始後も、絶対に「戦がない」といった叩きはであるだろうと思っていました。確かに2月頃まではそういう記事があったものです。

叩きが定番となり、それがアクセスを稼げるとなれば、どんどん回されていくだろう。

しかし、叩き記事は春ごろからは消えてゆきました。

視聴率は伸びないものの、大幅に落とすこともない。定期的に紙媒体の雑誌記事や関連書籍が発売される。

『源氏物語』だけでなく、『枕草子』、はたまた『小右記』まで売れているとのことで、異例づくしだと感じたものです。

大河ドラマとミソジニーといえば、信頼できるのが日刊ゲンダイさんです。

ゲンダイさんはとにかく「大河は男のものだ」という意識が強い。ゆえに『光る君へ』を貶してくれたら、ミソジニーが強い人にとっては鬱陶しい大河だと証明されます。

すると予想通り、序盤は叩きに回りました。そして12月には「テレビが10倍おもしろくなるコラム」にて、『光る君へ』を「ズッコケた」と断定する総括記事が出ました。

これだ!

これを待っていたのだと私はガッツポーズをしました。

そして、嬉しい予想外のこともありました。

ドラマのファンダムのみならず、複数の媒体でこの記事への反論が見られたのです。

そればかりか、同月には、ゲンダイさんでも『光る君へ』を成功したと認める記事を掲載していた。

ドラマだけでなく、こうしたメディアの動向を鑑みても、時代の流れは変わったのだなぁとしみじみさせられました。

 

ズレた彼女を世が受け止めること

『光る君へ』の「月夜バージョン」というビジュアルには、こんなコピーがつけられていました。

「わたしを 生きてみせる」

ドラマを見て、紫式部について調べれば調べるほど、なんて秀逸なコピーなのかと腑に落ちました。

ドラマのまひろは、どこかズレている。

紫式部も、生きづらさを感じている。

彼女の著作を読んだ後世の人間も、彼女はこの世に生きていて良い人だったのだろうか、とすら思っていることもあります。

水鳥を見て美しいとだけでなく、その苦労を想像してしまう彼女。

そんな感受性の持ち主にとって、“普通の人”が生きている世界は、それだけでも違和感を覚えるものであったのかもしれません。

『紫式部集』巻末にはこうあります。

いづくとも 身をやる方の 知られねば 憂うしと見つつも 永ながらふるかな

わたしが身を落ち着けて生きていける場所はどこなのか。でも、この世しかわたしは知らない。だから、どんなに辛くとも、わたしはこれまで生きてきた。これからも、生きていくしかない。

生きづらいこの世で、どうすればいいの?

人生の終着においてまでこう思うほど、彼女は辛かったのか。

そんな彼女に『光る君へ』はもうひとつの解決策を見せてくれたと思います。

尖った彼女でも、周囲が「この人はそういうものだ」と受け入れたらよい。彼女にこの世界を受け入れろ、どうにかしろと言うだけではなく、相手も受け止めるようにすればよいのだと。

紫式部日記』に、ああも悪様に書かれたことを、ききょうは知っているのか、知らないのか。

私は読んだ上で諦めて受け入れているのだと思いたい。

まひろは大河史に残る変人主人公で、癖があり、しかも女で、クリエイターでした。

こんなややこしく、難ありのヒロインなのに、その人柄も、不倫愛も、肯定的に受け止められたのは奇跡的なことです。

空気を読まずに突き進んだまひろ。

そんな彼女を世に送り出し、演じきり、認めさせたこのドラマは、まちがいなく大河の歴史を変えたと思います。

上半期朝ドラが『虎に翼』。大河ドラマは『光る君へ』。

そんな2024年のNHKは、多様性の重要性を知らしめることに成功したと思います。

『光る君へ』の評価は今後ますます高まり、伝説の作品となると信じています。

💟 『光る君へ』総合ガイド|紫式部の生涯・宮中・平安文化を網羅


あわせて読みたい関連記事

菅原孝標
菅原孝標女(ちぐさ)が『光る君へ』に出るべき理由|推し活オタクは幸せ也

続きを見る

周明はマージナル・マン
『光る君へ』周明のような人物は実在した?注目すべき歴史的背景はマージナル・マン

続きを見る

平為賢
異国の賊を撃退した平為賢|平安時代に台頭する武士の成り立ちと共に振り返る

続きを見る

『愛国物語』に描かれた藤原隆家
藤原隆家の生涯|天下のさがな者と呼ばれた貴族が政争に敗れて異国の賊を撃退

続きを見る

刀伊の入寇
「刀伊の入寇」で対馬や壱岐の住人虐殺!いったい誰が何のため襲撃した?

続きを見る

【参考】
光る君へ/公式サイト

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

武者震之助

2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』以来、毎年レビューを担当。大河ドラマにとっての魏徴(ぎちょう)たらんと自認しているが、そう思うのは本人だけである。

-光る君へ感想あらすじ
-

右クリックのご使用はできません
目次