光る君へ感想あらすじレビュー

光る君へ感想あらすじ 光る君へ

『光る君へ』感想あらすじレビュー総評 まひろは難ありな私を生きてみせたのだ

いざ始まると、あっという間に終わってしまった大河ドラマ『光る君へ』。

今回、総評レビューをまとめるにあたり、昨年の記事を読み返してみると、我ながら随分と悲観的だったなぁ……と改めて思わされました。

例えば2023年の大河ドラマ『どうする家康』の第39回サブタイトルは「太閤、くたばる」です。

「くたばる」とはあまりにも稚拙な言葉遣いであり、こんな調子ではむしろ「大河、くたばる」ではないか……と暗澹たる気持ちにさせられたもの。

そんなハンデを背負いながら、初めてだらけの平安時代を描かねばならない2024年は、本当に大変だったはずです。

しかし、その苦労は報われたように感じます。

12月15日の第48話で完結を迎えた『光る君へ』は、視聴率ワースト2を記録しながら、ネット上での記事や感想は穏やかな空気に包まれています。曖昧な表現で申し訳ありませんが、このやさしさこそが奇跡のよう。

制作サイドも、ファンの皆さんにも、手応え見応えがあったということでしょう。

今まで大河の視聴者層ではなかったファンを増やした。

視聴率ではなく、視聴者数を計測する時代に相応しいよい結果を残した。

関連書籍の売り上げは好調で、12月に入っても新刊が販売される異例の高反応があった。

こうした結果を残したからには、十分な成功を感じさせます。

戦国三傑の一人を主人公とし、ジャニーズ関連の俳優を複数名投入しながら失敗した昨年と比較すると、今年がいかに革新的であったか。

2023年は「シン・大河」だと喧伝する記事まであったものですが、新基軸大河として成功をおさめたのは明らかに2024年でした。

 


良識が世界基準に追いついた2024年

2024年は平安時代中期という、初挑戦にして大河最古の時代を扱いました。

過去の蓄積がないからには、セットや衣装を一から作らなければなりません。

そういう難行をやってのけただけでなく、大河ドラマもようやく世界基準に近づいたのではないかと思います。

セットやクオリティが海外ドラマと比べたら格段に劣ると失笑する方はおられるでしょう。予算不足は指摘されることではあります。

しかし、クオリティとは見栄えだけで判断されるものではありません。

レイティングやコンプライアンス面、題材面こそが重要。

まず主人公やテーマの人選ですが、五輪に絡んだ2019年や新札を見据えた2021年は「プロパガンダ」扱いされても仕方のない内容だったでしょう。

むしろ世界的にも珍しい平安時代の女性文人の方が、主人公に適していた。

フェミニズムや多様性と向き合った作劇も、実に2024年らしい取り組みといえます。

『虎に翼』と重なる展開が多かったものの、狙ったわけではないようで。

つまりは時代に追いついたドラマなのでしょう。

 


文学方面から大河ドラマへアプローチをするにはどうすべきか?

文学方面からアプローチした大河ドラマという点でも、2025年ともども本作は極めて意欲的かつ斬新です。

朝の連続テレビ小説『スカーレット』を手がけたこのチームは、女性クリエイターの人生を描くことに強い意欲があると思えます。そうした実績があってこそ、異色大河を実現できた。

それを踏まえると、以下のような意見はいかに的を射ていないか、ご理解いただけるでしょう。

「『源氏物語』の方がおもしろい。これをそのままドラマにした方がいい」

「劇中劇として『源氏物語』を挟んだ方がいい」

こうした意見を見かけ、私の脳内ではこんな妄想が駆け巡りました。

とある会社に勤める女性社員は、毎週『光る君へ』を楽しみにしてきた。配信を含めて何度も見返し、放映後は「光る君絵」を見るのも楽しみだ。

そんな彼女の悩みは、何十年も大河ドラマを見ているという男性上司。

月曜になるとニチャニチャした冷笑を頬に浮かべつつ、こう貶してくるのだ。

「なにが“みちまひ”だよw」

「あんな安っぽいメロドラマにするなら、まんま源氏やればいいだろw」

「韓流ドラマみたいw」

こうした意見に、反論は山ほどある。でも、上司相手にそんなことで突っかかれないし、ひきつった笑みで「そうなんですね」と受け流すしかない。

合戦がないなんて本当に大河か。そう上司がぼやいていたから【刀伊の入寇】では満足するかと思えばこう。

「あんなの別にいらねえしw」

百人一首に出てくる紫式部の歌が出てこないと言っていた。最終回に出てきたことで見事な回収だと彼女は満足していたのに、こう。

「とってつけたようにやられてもねw」

そしてこう吐き捨てた。

「ったく、あんなもんしか作れねーなら大河なんて看板捨てちまえばいいんだよw」

昨年の大河ではないけど、こんなとき、どうする?

ちょっと妄想が捗りすぎてしまいましたが、論点を整理しますと。

どんな状況でも難癖をつける人は一定数います。

『源氏物語』および平安文学ファンの間口を広げるのであれば、物語そのものよりも制作時の政治的背景をドラマにした方が良いと私は確信できています。

それを『光る君へ』は証明したのです。

 


『源氏物語』ドラマ化よりも巧みな手法

私なりのその点をまとめてみましょう。

・光源氏は誰が演じるべきか?

日本文学史上最高の美男子とされる光源氏。

往年の市川雷蔵のように、誰もが納得する美男でなければ、誰が演じようと不満が生じかねないとも言えます。

映画版において女性の天海祐希さんが光源氏を演じたことは、現実世界の男性では演じられないという意図もあったのかもしれないとすら思います。

これをクリアするにはどうすべきか?

『光る君へ』では答えが用意されています。

このドラマには平安装束を身につけた俳優が大勢登場します。見る人ごとに、自分が一番相応しいと思う俳優を、脳内で光源氏とすればよいのです。

青年期、中年期以降と分けてもよし。外見と声を分けてもよし。その人ごとにバリエーションが生まれます。

そんな自分の考える光源氏像をファン同士で語り合えば、盛り上がることでしょう。

・『源氏物語』を映像化して本当に魅力的になるかどうか?

古典文学の傑作とは、同時代の他の作品と比べて優れている。長い年月と批評を経て、揺るぎない価値を確立していると言った特徴があります。

そうはいっても、価値観は時代ごとに変わります。

当時の読者は受け入れられても、現代人がそうできるかどうか、そこは別の話。

菅原孝標女は、『源氏物語』を熱狂的なまでに求めています。

あれほど情熱を注いだのは当時は物語の入手そのものが困難であり、娯楽が少なかったという事情もあります。

江戸時代ともなると、『源氏物語』は和の心を代表する傑作として、国学者から高評価を受けています。

一方で「こんなふしだらな物語に憧れるのはいかがなものか?」という評価も出てきます。

近代以降の論者となると、堂々と「作品としてはよい。しかし、光源氏は好きなれない」と語るようになります。

今はそれこそ「光源氏と薫はじめ、あの作品の男君はどいつもこいつも最悪!」と酷評されて当然と言える。

性犯罪者としか言いようのない悪事も為しています。

性格も陰険極まりない。その陰険さを紫式部も理解しているのでしょう。地の文で突き放すように呆れている点も、『源氏物語』の特徴といえます。

そこまでふまえて、あの世界を映像化して、現代のレイティングを通過できるとは思えません。視聴者が好意的に捉えられるとも思えません。

『光る君へ』の男君も、いかがなものかと思われる言動をする人物はおります。

しかし、それでも光源氏や薫の思い出すだけで気分が暗澹としてくる行為の数々と比較すれば相対的にマシ。

原点が毒を帯びているからこそ、むしろアク抜きをして食べられるようにしたのが『光る君へ』なのでしょう。

当然のことです。紫式部は、千年以上超えてドラマ化されることまで考えて執筆できたわけでもありません。

現代にも通じる要素と、平安時代ならではの美を抽出して映像化するほうが賢いやり方ではないでしょうか。

・『源氏物語』を映像化していたら、かれらの姿が見られなかった

『光る君へ』は、紫式部と『源氏物語』をテーマとしていながら、別の作品のファンも惹きつけています。

『枕草子』ファンです。

あの作品に登場する定子サロンを再現する場面もしばしば見られました。「香炉峰の雪」や「青ざし」の場面は感動的だった。

定子も、ききょうこと清少納言も、イメージ通りの姿を見せてきたのです。

さらには、あえて清少納言が描かなかった定子の悲運まで描かれ、『枕草子』の補完を為しているともいえる。

『枕草子』は明るい世界観が貫かれているためか、清少納言はパリピで軽薄な女性だという悪評があったものです。

しかしそうではなく、敢えて暗い影を描かなかった姿も『光る君へ』では描かれました。『枕草子』ではやんちゃで笑い上戸だった隆家が、苦難を経て成長する姿まで描かれています。

定子の遺児である敦康親王に対して、道長があまりに冷淡である姿も回避していない。

実は中関白家に対するフォローが実はしっかりしていたのが『光る君へ』の長所といえるでしょう。

清少納言は軽薄なだけではないと説明する上で用いることのできる、良心的な作風ではないでしょうか。

『枕草子』では理想的な貴公子である藤原伊周が、呪詛人形噛み締め怪人になってしまったことに不満がある方も、当然おられるはず。

それについては何も申すことはありません。それはその通りだと思います。

・『源氏物語』では消えてしまう人々を描く意義

『源氏物語』は、当時の日本人ではごく一部でしかない、皇室と上流貴族しか扱っておりません。

作者である紫式部が属する中流以下の貴族ですら、背景でしかない。そういう上流階級だけを描く歴史劇には、不備があるとされます。

例えば誰かに「どの時代に生まれ変わりたい?」と尋ねたとしましょう。

返ってくる答えは、平安時代で和歌を読んで暮らしたいとか、戦国時代で一国一城の主になりたいとか、そういうお気楽な回答が戻ってきます。

すべて上流階級に生まれることを前提とした発想なんですね。しかしそうでなければ、どんな時代に生まれたって、即座に逃げ出したくなるほど過酷な生活が待ち受けています。

『光る君へ』では、そうした庶民の苦悩を敢えて見せるような人物が登場しました。

オリジナルキャラクター、いわゆるオリキャラと呼ばれる者たちですね。

直秀たち散楽の一行は、護送中に検非違使の判断一つで殺された。

一条帝の即位を妨害するため、庶民の子どもの生首ならば簡単に拾って来られる状況が描き出された。

疫病にかかったたねとその家族は、なす術なく呆気なく命を落とした。

極め付けは【刀伊の入寇】の襲来で落命した周明でしょう。

浜辺に置き去りにされたままの彼の遺骸を、ああもじっくりと映す必要性はあったのか? その意味は何か? 考えてみることも大切なことでしょう。

周明は対馬の漁師の子で、口減しのために父から海へ捨てられました。後に対馬へ行っても、誰も彼のことを覚えていません。いわば忘れられた存在しない人です。

それをまひろも、視聴者も「忘れえぬ人」だと思うようになった。

歴史の中には周明のような人物が大勢いるのです。

理不尽な暴力で命を落としたまま、忘れられてしまった存在。

まだ国境の概念もあやふやだったころ、国と国の間でどちらにも属さなかった人。

そういう記録に残りにくい存在に対し、あえて血肉を与えた意義は実に大きいといえます。

歴史学の捉え方も、時代によって変わってきます。2020年代、こうした歴史の間に消えてしまった視点での問いかけが重要視されています。

こうした人物たちを「ウケ狙いのオリキャラw」と冷笑するのか。

それとも「稗史目線で歴史を問い直す意義」と見なすのか。

捉え方は人それぞれ。

『光る君へ』は、『源氏物語』と大河ドラマそのものを、現代人に受け入れられるよう作り上げた良心的な作品だと考えています。

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