こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【孝明天皇】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
孝明天皇の意に沿う「一会桑」政権
長州藩が抜けた京都の政局は、大きく動きます。
禁門の変が成し遂げた影響は、長州藩の失墜だけではありません。
これほどの大きな政変が起こり、かつその中央にいたのが孝明天皇であったということは、幕府権威の低下をますます深刻化させるわけです。
分裂していた政局の重みは、京都側が増して江戸側が低下することに繋がりました。
そんな最中、孝明天皇が信頼を寄せたのは、以下の人物および勢力でした。
この三者を「一会桑政権」とも呼びます。
しかし当時そう呼ばれていたわけではなく、あくまで後世に付けられた呼び名です。また、三者の意見が必ずしも一致していたわけではありません。
自己の権勢を高めるために、天皇を利用したい一橋慶喜。
天皇への忠誠心一筋で、政治的な駆け引きには疎い松平容保。
兄である松平容保に付き従う松平定敬。
「同床異夢」と言いましょうか、三人の向いている方向は、必ずしも一致しておりません。
ゆえに江戸の幕府閣僚のみならず、他藩も反発。
孝明天皇があまりに松平容保贔屓が激しかったため、しらけムードすらあったようです。
この思いは他藩だけではなく、国元に残った会津藩首脳からも懸念が表明されています。
会津藩の京都守護職就任は財政的負担が大きく、危険視されていました。
そのため当初から藩首脳部から反対論が噴出。
容保が孝明天皇の寵愛を受け、プレッシャーがますます強まってゆく中、藩首脳部は解任と帰国すら願い出ます。
しかし、容保はそれを拒んだのでした。
シラけムードの「長州征討」
孝明天皇自身の意志を反映して、取り組むことになったのが長州への処分です。
しかし、世間からみると、処分は天皇の意志によるものというよりも、
【会津藩vs長州藩の私的な怨恨】
が由来とみなされたようです。
結果【長州征討】は、やることがあまりに中途半端な不完全燃焼となってしまい、かえって幕府の権威を傷つけます。
「あのとき外国の支援を受けてでも、長州を叩き潰しておけば!」
「そもそも、やるんじゃなかった」
そんな声がありますが、いずれにせよ中途半端だったと散々な評価を受けております。
なぜこんな不完全燃焼に終わったのか?
やる気があったのが孝明天皇とその周囲だけであった、ということも一因でしょう。
列強の思惑もあります。親仏路線の幕府を煙たがっているイギリスは、幕府を潰し、親英政権を樹立する方が旨みがあると気づいています。長州にはない強力な海軍を持つ幕府に対し、その海上戦闘に自国籍船舶が巻き込まれかねないとクレームを入れ、使えなくしたのです。幕府の戦力は大幅に低下しました。
奇兵隊がすばらしい、高杉晋作の用兵が神がかっていただの言われますが、それもイギリスの謀略なければどうなっていたのかはわかりません。
そもそも、幕府は総大将すら失っています。
孝明天皇の期待に応じるべく奮闘していた家茂は、心労もたたってか、この戦闘の最中に大坂城で短い命を落としてしまいます。誠意あふれる家茂は、幕臣たちにとって心の拠り所でした。勝海舟はじめ、多くの幕臣にとって「最後の将軍」とは家茂です。
江戸にいたこともない。やる気があるのかないのかわからない。そんな慶喜はあくまで名目的なものに過ぎません。幕臣の士気が落ちてもやむを得ないところです。このころには彼らももはや幕府は持つまいと内心思っていたものでした。
幕臣ですらない、薩摩藩にやる気があるわけもありません。その薩摩の西郷隆盛が、長州征討責任者なのですから、失敗は目に見えておりました。
かつて薩摩藩は、会津藩と並んで「八月十八日の政変」や「禁門の変」を戦っております。
しかし「一会桑」から外されてしまい、政治的疎外感を味わっていました。そこに薩英戦争を経て、目をつけてきたのがイギリス。彼らを焚き付ければ美味い汁が吸えると察知したのでした。
イギリスの援助も得て、やる気が増す薩摩藩。彼らが国内勢力に目を向け、見出したのが「朝敵」認定されている長州藩です。
犬猿の仲同士で手を組み、目障りな「一会桑」打倒を目指そうというもの。
その先にあったのが【薩長同盟】でした。
薩長同盟の当初の目的は、
・第二次長州征討の際には、薩摩側が幕府側に圧力を与える
・長州が戦闘に勝つことがあれば、薩摩側が斡旋して朝廷に和議を持ちかける
・幕府側が撤退したら、薩摩の斡旋で工作を行い、朝敵認定取り消しを行う
・一会桑側が妨害してきたら、武力行使も辞さない
というもので、この時点で倒幕までは視野に入っておりません。
そしてこの「薩長同盟」が成立した慶応2年12月25日(1867年1月30日)。
孝明天皇は崩御しました。
死因については、毒殺説を含めてここでは取り上げません。
むしろ重要なのは、毒殺説がささやかれるほど、特定の勢力にとっては障害であったという点ではないでしょうか。
孝明天皇は「一会桑」にとって扇の要のようなものです。
結束は崩れ、薩長側の勝利へと情勢は向かってゆきます。
イギリス商人・グラバーにとっては、孝明天皇崩御とはビジネスチャンス到来といえました。
己こそは「最大のアンチ・徳川」と嘯いていたグラバー。これを機会に日本で内戦を勃発させ、アメリカの南北戦争で余っていた武器を売りつければ、一儲けできるのです。まさしく千載一遇の好機でした。
政治的な駆け引きを苦手とし、孝明天皇の深い信任を頼りにしてきた松平容保にとっては、引き返すことのできない地獄への道が開かれました。
不都合な史実
孝明天皇というのは、幕末史を語る上において、重要であるにも関わらず、不都合な存在です。
長州藩はじめ、尊王攘夷派は、自分たちは天皇のために働いていると掲げていました。
しかし、事実は逆。
彼らの過激な行動は孝明天皇の意志からはほど遠いもので、かえって天皇の不興を買っておりました。
家茂はともかく、そのあとの慶喜の行動原理は徹頭徹尾自己利益への誘導であり、孝明天皇への忠義は表面的に思えます。
松平容保は、胸をはって自分こそが孝明天皇への忠義を果たしたと言える資格があるかもしれません。
しかし、彼の天皇への忠義は、幕府の権威低下を招きました。
むろん、彼が意図したものではないでしょうが、徳川家への忠誠心第一であったはずが、どこかで何かを間違えた可能性は否めません。
孝明天皇へ忠義を尽くした結果、会津のみならず奥羽を巻き込む戦乱を招いたともいえるのです。
確かに、彼にとって【義】を曲げることは考えられなかったことあります。
そしてその【義】がもたらした、主に東北の混乱と荒廃について、強く本人に追及するのは酷というもの。
彼の後半生は、慰霊と悔恨の日々であったのですから。
※続きは【次のページへ】をclick!