徳川家達/wikipediaより引用

幕末・維新

幻の16代将軍・徳川家達~幻の1940年東京オリンピックで委員長だったとは!

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大名家の子孫って意外と現代まで残っていたりしますよね。

有名なのは首相も出た細川家や、仙台などで歴史系イベントにも積極的な伊達家でしょうか。
となると、さらに大身だったあの家も当然ながら現在に続いています。

慶応四年(1868年)5月24日は、徳川宗家(本家)の十六代当主・徳川家達(いえさと)が「駿河藩主」になった日です。

もう少し幕府が続いていれば、十六代将軍になっていたはずの人ですね。
世間からもそのように見られていたらしく「十六代様」と呼ばれることもあったとか。

しかし、彼が生まれたのは文久三年(1863年)という幕末も押し迫った頃。
十四代将軍の徳川家茂が約230年ぶりに上洛したり、薩英戦争が起きたり、いよいよ江戸幕府の終わりが迫っていた頃でした。

そのため、彼は新しい時代の徳川家を一身に担っていくことになるのです。

 

遠征中の14代将軍・家茂が二十歳で急死

徳川家達が生まれた時点では、佐幕派の人々が
「まだだ! まだ終わらんよ!」
と頑張っていた頃です。

そのため家達も、当初は次期将軍候補として育てられておりました。

上記の通り家達が生まれた時点の将軍は家茂なのですが、子供がいなかったので後継者問題が起きていたのです。

家達は、御三卿の一つ・田安家の生まれです。
血筋をたどれば家茂とも、十三代将軍・徳川家定とも従弟にあたり、血筋の近さから最有力候補とされていました。

家茂も、もちろんそれを知っていましたので、
「私に何かあったときは、家達に将軍を継がせてください」
と言い残しています。

しかい、いくらなんでもわずか20歳、しかも長州征伐のため滞在していた大坂城で、家茂が亡くなるとは、誰も予想していませんでした。

幼少の頃の徳川家達/wikipediaより引用

 

徳川慶喜に代わり、宗家を引き継ぐ

このとき家達はわずか4歳。
幼い将軍としては七代・徳川家継の例がありましたが、その在任期間(1713-1716年)とは、まるで状況が異なります。

外国の脅威が迫る中、物心つくかつかないかの幼児をトップに据えていいものか?
幕閣も「さすがにないでしょ……」(超訳)という姿勢でした。

大奥では「家茂様の遺言通りに――」と考える人が多かったものの、家茂の正室である静寛院宮(和宮)が「いや、やはりもう少し年長の方に」と提案。
水戸藩などの有力藩もコレに賛成したため、十五代将軍は一橋家に入っていた一橋慶喜徳川慶喜)に決まったのです。

結果、家達は江戸城に入ることはなく、大政奉還戊辰戦争といった時代の激流に巻き込まれずに済んでいます。
そして「朝敵」とされた慶喜に代わり、明治政府から「徳川宗家を継ぎなさい」と命じられたのです。

まだ五歳でした。
が、既に政治の中枢ではない家ですから、名を残せば問題ないと思われたのでしょう。完全に取り潰してしまう方が、色々と面倒です。

その年の内に明治天皇に拝謁したり、官位も貰ってもいるので、家達は名実共に徳川家の主となるのでした。

 

英国へ留学するも近衛家との結婚のため早々に帰国する

翌年六月、静岡藩知事に就任、駿河府中へ移り住みました。

が、府中が「=不忠」に聞こえて縁起が悪いとして、「静岡」と改名しています。

先祖代々ゆかりの地の名前を、家康死後250年も経過してから改名するって、なんかズレてませんかね……?
いや、実際に行っているのですから当時は問題なかったのでしょうか。

しかし、明治四年(1871年)の廃藩置県によって藩知事の仕事はなくなり、その後はいわゆる「良家のお坊ちゃん」として育つことになりました。

例えばイギリスへも留学しております。

学生による模擬議会を見学して大きく感銘を受けたそうで、家達としてはケンブリッジもしくはオックスフォードへの進学を希望しておりましたが、義母にも等しい天璋院篤姫が家達の結婚を楽しみにしていると知らされ、帰国して近衛家のお姫様と結婚するのです。

このとき家達は19歳です。
武家の人としては、ちょうどいい年頃だったのですけれども、勉強を断念せねばならない――残念な気持ちもあったことでしょう。

 

ワシントン軍縮会議にも参加

下手に動かなかったのがよかったのか。
家達は大人になると公爵の地位を与えられ、帝国議会ができてからは貴族院議員の一人になりました。

形は違えど、徳川家が再び国政に関わるんですね。

しかし、彼は自らの立場がよくわかっていたので、天狗になることはありませんでした。

例えば、議会でトラブルが起きた際、首相に担ぎ上げられそうになり、家達は「徳川家が政治の表舞台で目立つのはよろしくない」と断っています。
東京市の市長ですら固辞したそうですから、かなり気を遣う人でもあったのでしょう。

彼の周囲では、まだまだ徳川家を利用するため、屋敷には客人が絶えなかったそうです。お偉いさんも大変ですね。

一方で、彼には少々困った習慣がありました。

江戸時代にはそう珍しいことではなかったBL。
家達は明治時代以降になってもこのクセがなかなか抜けず、相手に口止め料として大金を払ったことがあるのです。

憶測の範囲ですが、このせいで学習院の総裁になれなかったとか、いろいろ仕事の面でも不利になったとか。
一般人の間でも明治~大正時代くらいまでは若干残っていたそうなので、家達だけでもないんですけどね。

それはともかく、家達はワシントン軍縮会議に立ち会ったり、慈善団体やスポーツ協会の立ち上げに関わったりと、いろいろな面の仕事をしております。

ワシントン軍縮会議に参加。右が徳川家達/wikipediaより引用

他には、1940年に行われるはずだった東京オリンピックの委員長も務めています。
日中戦争中やら国際情勢やらで、日本政府が辞退してしまったので開催には至らなかったのですけれども。

大河ドラマ『いだてん』でもおなじみ、嘉納治五郎と繋がりがあったと考えると胸アツですね。

嘉納治五郎は中止の報を聞かずに亡くなっておりますが、家達は開催予定だった1940年に息を引き取っているので、何らかの心理的影響はあったかもしれませんね。

 

現代まで続く徳川各家の行く先は?

彼の血は、現在の徳川家に続いております。

家達の跡を息子・家正が継ぎ、その後、家正の孫である恒孝(つねなり)氏が現在徳川宗家の当主をやっていらっしゃいますね。

恒孝氏は松平容保のひ孫でもあるので、
「かつて朝敵とされた人の血筋が残っている」
ことになるのですが、時代が良い方向に変わったことがわかります。

まぁ、江戸時代の間も「遡って権現様(家康)にたどり着けばおk」という感じだったので、大して変わっていないのかもしれませんが。

相撲好きとしても知られた徳川家達(左から2番目)/Wikipediaより引用

ちなみに、最後の将軍である慶喜はまた別の家として存続しました。
が、最後の当主・徳川慶朝(よしとも)氏が2017年9月に亡くなっており、養子も取らなかったために断絶しております。

他の徳川家では、尾張家が愛知県で徳川美術館を経営したり、水戸家が東京で徳川ミュージアムを運営したり、ちょいちょい話題になりますね。
紀州家は現在のご当主が独身のため、やはり血筋が絶えそうですが、まあその辺は誰が強制するものでもないでしょう。

いずれにせよ、徳川家に伝わってきた武具や美術品などは、しかるべき技術と設備の下で残して欲しいですよね。
災害や戦災で失われていたと考えられていたものが、後になって見つかることもあります。

血筋だって、女系も含めればどこかで続いているかもしれません。

幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)はナゼ開催されなかった?

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
徳川家達/Wikipedia

 



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