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【篤姫と西郷隆盛の関係】
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徳川家に残されたのは駿河の七十万石のみ。今までの所領の十分の一以下です。
新しい国を作るという新政府軍にとっては当然の処分だったのかもしれませんが、この態度に納得できない幕臣や旗本たちは、上野寛永寺に集結し、彰義隊を結成。
篤姫も徳川家のために奔走し、直接新政府に掛け合い寛大な処分を要求します。
篤姫にしてみれば新政府軍というより、実家・薩摩の人々が攻めて来たようなものです。話せばわかるという気持ちもありましたし、この時こそ徳川に嫁いだ意味もある、と感じたのかもしれません。
しかし、新政府内では強硬論が優勢。
ついに5月15日、隆盛率いる新政府軍は、彰義隊を武力掃討するのでした。
これを上野戦争と言いまして、大村益次郎が非常に強硬な姿勢で幕府軍に向かったことが知られています(詳細は以下の記事にお譲りしたいと思います)。
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依頼を突っぱねられ、まるで存在を否定されたかのように
上野戦争で完膚なきまでにやられた彰義隊。徳川の忠臣が粉砕され、篤姫の心痛はいかほどだったか……。
さらに篤姫は、寛永寺に攻撃が加えられたことにも怒っていました。
寛永寺は天皇の宸筆(しんぴつ)による額が掲げられ、住職は皇族です。そんな天皇家とのゆかりが深い、他の寺とは違う寛永寺を攻撃するとは、朝敵そのものではないか、と。
聡明な彼女は、新政府軍の持つ怪しさを喝破しておりました。

軍服姿の西郷隆盛/Wikipediaより引用
彼女の怒りは、特に薩摩島津家へ向けられました。
実家だからと頼った依頼をつっぱねたそのふるまいに我慢ならなかったのでしょう。
徳川と島津をつなぐために嫁いだ身としては、自身の存在を全否定されたような気分になったとしても、おかしくはありません。
実際、この後も望みを捨てきれない篤姫は、奥羽越列藩同盟の指導者たちに接触をはかり、巻き返しに一縷の望みを託します。
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が、伊達藩などを中心にしたこの同盟も新政府軍に敗北し、徳川巻き返しという彼女の希望は木っ端微塵に砕かれてしまいます。
島津家の支援を断り、幼主・家達の養育に尽くす
その後、篤姫は、実家島津家からの支援を一切断りました。
慶喜らが駿河に向かった後も江戸に残り、徳川家の奥向きを取り仕切ります。
そして篤姫は大奥から出た時点で侍女のほぼ半数に暇を出し、かつての絢爛豪華な日々とはまったく違う、質素倹約を旨とした生活を送るのです。
唯一の生きがいは、徳川の幼主・家達の養育に尽くすこと。
明治16年(1883年)、47歳で亡くなるまで、彼女はあくまで徳川の御台所として生き、亡くなっております。
こんな経緯では、たとえ篤姫が結婚前のかなり若い頃に隆盛へ恋心を抱いたとしても、幕末の混乱期には百年の恋も醒めたことでしょう。少なくとも江戸城の無血開城時には、相当なストレスがあったに違いません。
もしかしたらその前後における彼女の心境が、ドラマの見どころの一つになるのかもしれません。
だとすれば、描き方次第では興味深きものとなりましょうか。
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文:小檜山青
【参考】
『大奥の女たちの明治維新 幕臣、豪商、大名――敗者のその後 (朝日新書)』(→amazon link)