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【月照】
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「日向国送り」すなわち始末せよ
島津斉彬が亡くなり、次に同家を継いだのは弟の島津久光ではなく、その息子の島津忠義。
されど実権は久光が握る。そんな状態でした。
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厄介者の月照を連れて薩摩に戻った西郷に対し、藩の裁きは極めて冷酷なものでした。
「日向国送りにせよ」
日向国とは、現在の宮崎県にあたり、薩摩の北東に位置しております。
もっとも位置がドコにあろうと関係ありません。
薩摩と日向の国境まで進み、そこで「斬り捨てよ」という死刑宣告なのです。
西郷、月照、平野は、薩摩の錦江湾(鹿児島湾)に船を浮かべました。
船上で酒を酌み交わす三人。もはや彼らに打つ手はありません。
西郷は苦悩しました。
志を同じくした月照を救うどころか殺すだなんてできるワケがない。
しかし、もはや逃げ場はない。
ならば、せめて一人では死なせはしない――そう判断するや、月照と錦江湾に身を投げたのです。
二人は、覚悟の上で入水したとされています。
船の舳先で用を足している月照に西郷がいきなり抱きついて、そのまま強引に水の中に落ちたという説もあります。
この説に従うと、無理心中ということですが……。
このとき二人は、平野らによって引き揚げられました。
西郷は水を吐き出し、蘇生しましたが、月照は既に事切れていました。
享年46。
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西郷は死して偽名で奄美大島へ
西郷はこの事件により、奄美大島への流罪がくだされます。
月照だけでなく、西郷も生きていては何かと都合が悪いため、いったんは死んだことにされ、島へは菊池源吾という偽名で送られます。
そして西郷は生涯、月照の死を悔やみ続けたと伝わります。
奄美大島に着いたばかりの頃、ひたすら木刀を振り、地元の人から気味悪がられていた――と伝わりますが、その直前にこんな出来事があったのならば仕方ないのかもしれません。
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西郷は、1874年の17回忌に「相約して淵に投ず……」という漢詩を送り、それは今も清水寺北総門内に石碑として残っております。
一方、月照はこんな辞世を詠んだとされます。
大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも
もしも無理心中だったとすれば、そんな余裕はなかったことでしょう。
教科書にはまず記されることのない西郷の挫折と心の傷。
この一件を知って西郷の魅力に取り憑かれていく人もまた少なくありません。
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文:小檜山青
【参考文献】
『明治維新人物辞典 幕末篇』奈良本辰也編(→amazon link)
『国史大辞典』