伊藤博文

左から……長州五傑時代(上段右)/志士時代/高杉晋作と共に映る伊藤博文(右)/wikipediaより引用

幕末・維新

秀吉並の超出世で足軽から総理大臣となった伊藤博文~松陰に愛された才とは?

豊臣秀吉の出世物語があまりに華々しいせいか。

同じく【足軽→日本のTOP総理大臣】に4度も立ったにもかかわらず、その点、ほとんど注目されていないのでは?という人物がおります。

明治42年(1909年)10月26日に亡くなった伊藤博文――そうです、日本初の総理大臣にまでなった人物です。

しかしこの伊藤、ちょっと誤解が多い。

歴史の授業では、明治時代で少し経ってから名前が出てくるため、元々が

「長州藩士であり幕末期に活躍した松下村塾生の一人だった」

と言うと、結構な割合で『えっ!?』と驚かれます。

幼き頃より松下村塾で学び、吉田松陰にも認められていたのです。

しかし、その一方で、当人は明治天皇に本気で呆れられるほどの女好きであり、「当時の偉人はみんな妾を持っていた」といったレベルではなく、ある種の病気なほど誰彼構わず手を出すことで非難もされていました。

また若い頃は激しいテロ行為を重ねた危険性もあり、全てが無批判に讃えられるような歴史でもありません。

本稿では、伊藤博文の経歴事績を中心に追っていきますので、その他のことは以下の記事をご参照お願いします。

女好きがもはや異常レベルの伊藤博文~女を掃いて捨てる箒と呼ばれ

続きを見る

伊藤博文と渋沢栄一はテロ仲間
渋沢栄一と伊藤博文は危険なテロ仲間だった?大河でも笑いながら焼討武勇伝を語る

続きを見る

※TOPの画像は、左から長州五傑時代(上段右)/志士時代/高杉晋作と共に映る伊藤博文(右)

 


松下村塾のスターたちよりちょっと歳下

後に伊藤博文となる赤ん坊は、天保12年(1841年)、周防国熊毛郡束荷村(現山口県光市)に生まれました。

父は林十蔵。母は琴子。

長州藩士と言えば真っ先に『松下村塾』を思い浮かびますが、

吉田松陰/wikipediaより引用

伊藤は彼らの中心世代より若干歳下になります。

【吉田松陰】11歳年長(天保元年誕生)

【桂小五郎(木戸孝允)】8歳年長

【入江九一】4歳年長

山県有朋】3歳年長

【高杉晋作】2歳年長

久坂玄瑞】1歳年長

吉田稔麿】同年(天保12年誕生)

錚々たるメンバーが並びますね。

彼ら松下村塾生の特徴は、幕末動乱期での死亡率が非常に高いことが挙げられます。

一方、生き永らえた者は、それこそ日本のトップに上り詰めるような大出世を果たした者もいます。

赤ん坊の頃の話に戻りましょう。

それは夫妻にとって待望の子でした。

二人の間には結婚後3年間子供が出来ず、母がさんざん神頼みして誕生したのです。

欧米の国外進出によって、世界が動乱の渦に巻き込まれていった時代。

彼が産声をあげる前年、お隣、清国ではアヘン戦争が始まり、日本国内でも天保の改革、萩では藩政改革が行われておりました。

 


ペリー来航後 父が足軽の家に養子入り

嘉永6年(1853年)。

幼い彼が萩へ移住した四年後、黒船が浦賀に来港しました。

この頃から日本は、いわゆる幕末期へと突入。

翌安政元年(1854年)正月、父・十蔵は萩藩の中間・伊藤直右衛門の養子となりました。

彼も伊藤姓の足軽となります。

足軽ながらも藩士の一員となった伊藤は、久保五郎左衛門の塾に通えるように。

成績優秀。

幼少の頃より才気あふれる存在でしたが、一人叶わない少年がいました。

吉田稔麿(としまろ)です。

吉田稔麿

吉田稔麿/wikipediaより引用

吉田は、松下村塾において高杉晋作や久坂玄瑞と並ぶ俊英ですから、仕方のなかったことかもしれません。

黒船来航で世の中が騒然とする中、長州藩も相模湾の警備を実施。

安政4年(1857年)、伊藤は来原良蔵(くるはらりょうぞう)に教え受けるようになり、来原は、萩に戻る伊藤に紹介状を書きました。

「吉田松陰の松下村塾でさらに学べ――」

 


入塾翌年 京都派遣メンバーに推挙される

こうして伊藤は松下村塾に参加することになりました。

松下村塾に関してよくある誤解の一つに【身分を問わない】というものがあります。

確かに現代においては、そちらの方がイメージ良く、また面白い存在でもあるものです。

しかし実際は、構成員を見る限り武士階層が優遇。「受講生すべて」が平等に扱われていたわけではありません。

元々は武士ではない――武士としても最下層である伊藤も、やはり格差に直面しました。

単純に言えばお金がないワケで。旧知の吉田稔麿から書物を譲り受ける等して、乗り切ります。

そして入塾した翌年の安政5年(1858年)には、吉田松陰の推薦メンバーの一人に選ばれ、京都に派遣されました。

右から三谷国松、高杉晋作、伊藤博文/wikipediaより引用

いったい松陰は、伊藤のことをどう思っていたのか?

久坂宛の手紙によるとこうあります。

「利介(伊藤のこと)亦進む、中々周旋家になりきふな」

【意訳】伊藤はまた学問が進歩した。なかなかの交渉役になりそうだ

「才劣り幼きも、剛直にして華なし、僕頗る之れを愛す」

【意訳】才能は劣り学問でも未熟だが、剛直な性格で地味だ。僕はこの弟子をとても愛している

こうした評価は、伊藤が当時16歳、高校生程度であったことも考慮すべきでしょう。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-幕末・維新
-

×