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【伊藤博文】
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もう維新の立役者たちはいない
征韓論がおさまると、ひとつの時代が終わりを告げました。
維新三傑である木戸孝允は病死。
大久保利通は暗殺。
維新三傑が立て続けにいなくなり、参議兼内務卿となった伊藤らの前には、問題だらけの新政府が残されたのでした。
藩閥政治への不満は大きく、士族の反乱ばかりでなく自由民権運動も盛んになり、明治政府の統治に不満を持つ庶民が、盛んに声援を送るような事態となっていきます。
そんな最中、明治12年(1879年)、伊藤は「教育議」を上奏、教育令を発布します。
明治14年(1881年)には、盟友である大隈重信と袂を分かちました。
日本の立憲体制をどう作るかにおいて、意見が対立したのです。大隈の急進性に警戒を抱いた伊藤は、彼を政界から追放するのです(「明治十四年の政変」)。
大隈を立ち去らせたあと、伊藤は明治15年(1882年)から明治16年(1883年)にかけて、憲法制度調査の任を帯び、再び渡欧。
プロイセンで憲法や内閣制度を学んで、帰国後は内閣制度や憲法制定に見聞を活かしました。
さらに明治17年(1884年)には、華族令も制定されます。
伊藤は伯爵となり、他の下層武士出身である政府官僚らも華族に列しました。
新たな身分秩序はこうして誕生したのです。
幕末期の活躍だけはなく、こうした制度が政府の格付けにおいて役割を果たしました。
初代内閣総理大臣、憲法への情熱
明治18年(1885年)、形骸化しつつあった太政官制に代わり、内閣制度を導入。
名門公卿だった公爵・三条実美との争いに勝った伊藤は、初代総理大臣として第一次伊藤内閣を組織します。
激務に拍車がかかりました。
明治19年(1886年)、井上毅らと共に憲法草案に着手。
明治21年(1888年)、プロイセンの影響が濃い大日本憲法草稿ができあがりました。
そして同年、枢密院を開設すると、初代枢密院議長に就任するため首相を辞任しました。
背景には、外相・井上馨によって推進されていた条約改正交渉が、政府案漏洩事件をきっかけに、激しい攻撃にさらされたことがあります。
この事態を収拾するため、薩摩閥の黒田清隆に首相を譲ることにしたのです。
伊藤は、枢密院議長として憲法草案の最終審議に尽力しました。
この憲法制定における努力が認められ、伊藤は明治天皇の深い信任を獲得、「元老」として政府首脳の中でも一段高い位置に上り詰めました。
かくして大日本帝国憲法は、黒田清隆内閣のもとで発布されます。
明治22年(1889年)のことでした。
明治23年(1890年)11月、帝国議会が開設されました。
伊藤は閣外におりましたが、それでも立憲制運用への情熱は絶えません。
第一次山県有朋内閣・第一次松方正義内閣においては、貴族院議長または枢密院議長として、摩擦を起こしかねないほど強硬な助言や指導を行いました。
『憲法義解』も刊行し、並々ならぬ情熱を発揮したのです。
二度の戦争
明治25年(1892年)。
政党結成は断念しつつも、第二次伊藤内閣が結成。
日清戦争と条約改正という困難を乗り越えてゆきます。
彼は挙国一致内閣を目指しました。
自由党の板垣退助と改進党・大隈重信を加えた内閣を目論んだのですが、板垣のみにとどまり、大隈は拒否。
明治31年(1898年)での第三次伊藤内閣では、挙国一致内閣の目標をさらに追いかけます。
新党結成に意欲を燃やし、結局は、山県有朋の反対で挫折します。
そして明治34年(1900年)9月。
立憲政友会が結成されると、伊藤が総裁に就任し、同会を率いた伊藤は、実に四度目の四次伊藤内閣を組織します。
が、山縣有朋とその派閥により苦境にたたされ、わずか7ヶ月の短命内閣。伊藤は党の組織化に苦しみ、彼の手から離れていきますが、大正デモクラシーではその存在感を発揮しています。
日本政府は、外交面で難しい立場に立たされておりました。
日英同盟推進か日露協商打診か?
意見が対立し、伊藤はアメリカとヨーロッパに渡って、ロシアに日露協商を打診したのです。
が、政府は日英同盟交渉を進行しており、伊藤の目論見は失敗に終わります。
明治36年(1902年)7月、伊藤は枢密院議長となり、政友会総裁辞任を余儀なくされます。
このころから、伊藤は慎重にロシアとの交渉、そして開戦にあたる決定を、他の政府首脳とともに行いました。
暗殺
明治38年(1904年)から明治42年(1906年)にかけての三年半、伊藤は初代韓国統監として韓国の併合に立ち会います。
伊藤は当初、必ずしも併合に賛同していたわけではありませんでしたが、独立を目指す義兵運動が高まる中で、それもやむなしと考え方を変えてゆきました。
韓国併合はその地に住む人にとっては、痛みを伴うものでもあったのです。
統監を辞した後、極東問題についてロシアと協議するため、伊藤は満州に赴きます。
そして明治42年(1908年)10月26日。
ハルピン駅において、韓国人の安重根が伊藤を狙撃。凶弾に倒れ、伊藤は世を去りました。享年69。
死去に際しては従一位に叙せられ、国葬をもって見送られています。
その国際性は、吉田松陰のみならず来原良蔵という師匠がいたことも大きかったといえましょう。
色々と振れ幅の広い人物ではありますが、明治日本を導いた一人でありました。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男 (講談社学術文庫)』(→amazon)
『国史大辞典』
他