渋沢栄一

左が武士時代で右が1915年に渡米したときの渋沢栄一/wikipediaより引用

幕末・維新

史実の渋沢栄一その功績とは?『青天を衝け』主人公の生涯92年まとめ

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ベルギー国王のトップセールスに驚き

渋沢はやりくりに長けていました。

片言のフランス語で銀行制度を勉強し、逗留するホテルも格下げして節約に励んだほど。

銀行、新聞、水道……社会システムの数々に、渋沢は驚きました。

一番の驚きは、ベルギー国王・レオポルド2世自ら、

「これからは鉄の時代。貴国にも是非、我が国から輸入していただければ」

とトップセールスをされたことでした。

将軍が自ら商売をするだろうか?

これからは商業の時代が来る?

士農工商が身についた渋沢からすれば、それは世界がひっくり返るような衝撃でしょう。

しかし、このレオポルド2世がのめり込んだビジネスには、今日に至るまで禍根を起こした悪例もあります。

帝国主義、植民地、グローバルビジネスは、明るい面だけではなかったのです。

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そして帰国した渋沢を待ち受けていたのは、崩壊した江戸幕府でした。

他の幕臣同様、徳川慶喜のいる静岡で暮らすこととなったのです。

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明治政府には人材が必要なんだ! しかし……

さて、そんなわけで始まった明治政府は前途多難でありました。

江戸っ子は、こんな狂歌を残しております。

「上からは明治だなどというけれど、治明(おさまるめい)と下からは読む」

いやいや、それは負け惜しみでしょ――とは言い切れないものがあります。

岩倉遣欧使節団の留守中に、内政はガタガタ。

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政治だけでも手一杯なのに、他の要素はもう追いかけられない。

農業、商業、工業、軍制改革、警察制度……数多くの改革を迫られる中、これぞ武士らしい!と乗り気で政府中枢が取り組んだのは、せいぜい軍事面あたりでしょうか。

警察制度も、薩摩藩では主流ではない川路利良が主導しました。

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そんな川路のもとには、佐幕藩出身者の巡査もおりました。

例えば会津の佐川官兵衛とか。

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新選組の斎藤一もその一人です。

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商業は、薩長土肥ではない福井藩の由利公正に一任しておきながら、クビにするという無責任っぷり。

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薩摩には商業のエキスパート・五代友厚がおりました。

しかし、彼ですら【戊辰戦争不参戦、先行不充分】という理由で登用されず、下野していたほどです。

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蝦夷地改め北海道は、日本一知識の豊富な松浦武四郎を起用するものの、藩閥政治とアイヌへの差別的扱いに絶望し、返上されるという始末。

そのせいで、入植者は苦しむこととなりました。

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北海道の開拓団は、いわゆる戊辰戦争の負け組を中心に送られており、明治政府の成立当初は、幕臣もお払い箱という気分であったかもしれません。

これは幕臣側も同様でして、食い詰めるか、誠意をもって迎えられねば、なかなか登用されようとしません。

江戸から明治という時代の変化で、振り落とされた人材は多かったことでしょう。

しかし、明治政府も困り始めます。

人材不足は如何ともし難いく、勝海舟や榎本武揚といった幕府の中心人物ですら頼らざるを得ません。

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中には福沢諭吉のように、意地でも明治政府を突っぱねた人物もおりますが、登用組の中に、渋沢栄一も含まれていたのでした。

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運命を変えた大隈邸での一夜

経済面で政府を支えるエキスパートが欲しい――。

そんな中で、郷純造(ごう じゅんぞう)という幕臣出身の人物が、明治2年(1869年)、渋沢に目をつけます。

水際だったパリでの報告書を出した男が、「静岡商法会所」をすぐさま大改革し、組織したらしい。

渋沢の優れた才知により、静岡の商業は息を吹き返した。

これを国単位でやってみたらよい。

そうなったのです。

とはいえ、渋沢にヤル気なし。すぐさま辞めようと渋々引き受けました。

出仕直後の晩秋、渋沢は築地にある大隈重信邸を訪れました。ここで両者は夜通し語り合います。

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渋沢栄一は、大隈重信に向かって言いました。

「私なんかどうせ役に立ちませんし、静岡で実業界に入ります。だいたい、新政府はガタガタで、誰も何も知らない状態ではありませんか。これで新制度と言われたところで」

「きみの言うことはわかるがね、新政府はそりゃ誰も税制のことなんか知らない。ここから始めるものだから、万事未経験、当然だろう。ここから始めなきゃ!」

「慶喜公が蟄居しているのに、私ごときが出仕とは不忠です」

「きみは代々の幕臣ではないだろう。それに王政復古は、慶喜公の願いでもある。元家臣が朝廷に出仕するとなれば、誇りとなっても恥にはならんだろう」

そして、大隈からとどめの言葉が繰り出されました。

「これからの国づくりは、もう思想や立場じゃない。高天原に八百万の神が集うようなものだ!」

アカデミックドレスを着用した大隈重信/wikipediaより引用

現代人からすればちょっとピンと来ないかもしれません。

要するにマーベルヒーロー勢揃いの『アベンジャーズ』状態だということでしょう。

一説によれば、渋沢は自分の考えた制度を取り入れることを条件としたとも。このあたりからも、渋沢の性格やポリシーが見えてきます。

福沢ほど武士としての思想はありません。

幕府を批判しながら、幕臣となる。

攘夷を志しながら、パリに魅了されて髷を切る。

そして政府に不満がありながら、出仕する。

自分のアイデアを受け入れてくれるのであれば、どこでもいい。自分のアイデアこそ、守るべきもの。

そんな性格が見えてきます。

 

富国か? 強兵か?

明治4年(1871年)、渋沢は制度取調御用掛、枢密権大使となります。

その課題は山積みでした。

◆貨幣制度改革
→金と銀本位制度が入り混じるものを、円・銭・厘に統一

◆銀行制度導入
→アメリカのナショナルバンク・アクト導入する「国立銀行条例」制定

◆株式会社導入マニュアル制定(『立会略則』『会社弁』)

こうした経済重視の政策は、政府に理解されにくいものでした。

というのも、軍備拡張を進めたいという思惑が強くあり、明治政府の首脳部には理解されないものがあったのです。

「富国強兵」という言葉は、明治政府の一致した政策であると言う説明がなされます。

これがそう単純なことでもなければ、一致した意見でもありません。

富国(=経済)か?
強兵(=軍事)か?

意見は常に競い合っていました。

軍事費歳出を迫る側からすれば、出し惜しみするように思える渋沢は目の上のたんこぶに他なりません。

かくして明治6年(1873年)、井上馨とともに辞表提出、大蔵省退官に至るまでには、そうした対立構造があったのです。

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この対立構造は、ついに維新から10年目で【西南戦争】に至りました。

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