幕末・維新

最強の女スナイパー新島八重を知れば幕末&会津がわかる!86年の生涯

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新島八重
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一会桑政権と薩長同盟

孝明天皇の信任あつかった会津藩。

しかし、そのことが憎しみを集めてしまうことにもつながります。

長州藩は、孝明天皇への弁明の機会を逃したのは会津藩が阻んだからだと怒りを募らせます。

これは言いがかりに近いもので、孝明天皇の憎しみこそが長州藩への厳しい態度につながったのです。

◆八月十八日の政変
禁門の変
◆長州討伐(長州征伐

いずれも孝明天皇の意志で長州は京都から追い出され、朝敵と認定されました。

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しかし、長州藩としては憎悪を天皇にぶつけるわけにもいきません。

そのかわりに、孝明天皇から信頼されていた会津藩を憎むことになったわけです。

薩摩藩は、途中までは会津藩と共闘する関係でした。

しかし、【一会桑政権 ※一橋慶喜・会津藩・桑名藩】が孝明天皇の信任を背景として権力を掌握すると、一橋慶喜と対立した薩摩藩は、巻き返しの必要性を感じます。

こうして政権から弾き出された薩摩藩と長州藩が手を結んだ先にあったのが【薩長同盟】です。

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当初から倒幕を目的に組まれた同盟ではありません。

あくまで権力巻き返しのためで、具体的には

・幕府の長州征伐に協力しない

・長州の朝敵認定取り消しに尽力する

などでした。

しかし、ここで急展開を迎えます。

孝明天皇が崩御するのです。

これにより「一会桑政権」も崩壊して、慶喜はフランスへの接近を始めました。

 

会津藩内にもあった、内乱回避への動き

慶応3年(1867年)。
会津藩の内部でも今後の風向きに対する不安感が募っていきます。

薩摩や長州などとの内乱を如何にして回避すべきか――。

そのために会津でも対策が練られました。

山本覚馬
広沢安任
神保修理
秋月悌次郎

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当時の覚馬は、会津藩の洋学校に上田藩士・赤松小三郎を招聘しています。

赤松は佐久間象山とも交流があり、覚馬との縁がある人物です。

生きていれば必ずや日本の行く先に影響を与えたであろう――そんな人物であり、イギリス式兵学や議会制度に関して一流の見識を持っていました。

薩摩藩でも厚遇を受けていた赤松は「幕薩一和」を唱えており、内乱回避に尽力していたのです。

赤松小三郎
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ところが、です。
慶応3年(1867年)9月3日。中村半次郎桐野利秋)ら薩摩藩の手によって、赤松暗殺。

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同年11月15日には、大政奉還による穏健な政権交代を目指していた坂本龍馬が、京都見廻組によって暗殺されてしまいました。

赤松の死の背後には、武力倒幕に舵を切りたい薩摩藩の思惑があり。

坂本の死の背後には、倒幕を阻止したい会津藩の思惑がある。

坂本龍馬
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そんな覚馬たちの願いも虚しく、破局に向けて突き進む両陣営。

会津藩内部でも、武力による戦闘を望む声が高まるのでした。

 

鳥羽伏見の戦いで弟が戦死

視力を失った覚馬が京都にとどまる中、事態は緊迫してゆきます。

慶応4年(1868年)。
鳥羽・伏見の戦いが始まりました。

覚馬の恩人である林権助、そして弟の三郎が、この戦いによって戦死。

敗れた徳川慶喜は、大坂から江戸へ向かいます。

大坂から船で脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年)/wikipediaより引用

慶喜や同行した容保に怒りを向けるわけにもいきません。

かわって、非戦派だった神保修理に怒りが向けられ、切腹に追い込まれます。

覚馬はこのままでは会津が戦争に巻き込まれると焦りをつのらせます。

そこで、門人と共に大坂へ向かうのですが、混雑の中で捕らえられ、薩摩藩邸に連行されてしまいます。

覚馬は『万国公法』で裁いて欲しいと訴えます。彼は『管見』を執筆し、新たな国作りを説きました。

薩摩藩のおける覚馬の扱いは、決して粗略ではありませんでした。

これは、覚馬の優れた見識ゆえとされています。それだけではない何かも感じさせます。

薩摩藩士には、赤松の教えを受けた者を中心として、内乱を起こすべきではないと信じる者が多くおりました。

赤松の死後、彼らは黙らざるを得ませんでした。

しかし、内心は、内乱を起こすことに忸怩たる思いを抱いていたのではないでしょうか?

赤松と交流のあった覚馬の扱いから、そんなことを感じさせるのです。

 

戊辰戦争への道

江戸では徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎。

江戸城は「無血開城」となり、政権交代は終わったはずでした。

しかし、戦いは終わりません。

長州藩は、一時期、朝敵認定された怒りと恨みがあります。

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この二藩を徹底的に潰してこそ、幕府を支持する声を消すことができる。

痛い目にあわせれば、薩摩と長州を中心とした新政権に反抗する声も抑えつけることができる。

そうした思惑から、東北へと戦火が広がることとなるのです。

しかし、奥羽の諸藩からすれば、この処分は不可解なものでしかありません。

会津藩主・松平容保の首まで容赦なく求める長州らに対して、仙台藩が異議を唱えました。

こうして【奥羽越列藩同盟】が結成され、戊辰戦争への道へと日本は突き進んでゆくのです。

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天皇と、将軍家への忠義に苦しめられ

幕末の会津藩で語られる悲劇。

それは、保科正之から伝わる『御家訓』の呪縛です。

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もうひとつ、孝明天皇の『御宸翰』をはじめとする信頼の数々。

生真面目な容保は、危険であると諫められながらも、この二つの縛りにがんじがらめにされていました。

孝明天皇の信任を守るあまり、長州藩に厳しい態度を取らざるを得ない。

徳川慶喜も忠誠心を見込んで、実弟の喜徳を会津藩の養子に送り込みます。

いつか京都守護職をやめて帰国しなければ、危険であるという認識はありました。しかし、生真面目な容保はそのタイミングを逃したのです。

一方、会津をなんとしても責め立てたい倒幕側は、厳しい態度を取ります。

「松平容保の首を寄越せ!」

そう強硬に主張したのです。

江戸時代を通して、武士は主君の首を守ることこそ、最も大事であるとされてきました。

これを知っているからこそ、松平容保は、長州征伐において「長州藩主の首を求めることは過剰だ」と進言したほどです。

江戸無血開城の時、西郷隆盛山岡鉄舟から「あなたたちが島津の殿の首を求められたらどうするのか?」と説得され、応じたという経緯もあります。

にもかかわらず、長州を中心とした西軍は松平容保の首を要求してきた。

さすがに仙台藩や米沢藩も疑問を感じ、赦免を嘆願します。

奥羽の諸藩は、秋田藩のような数少ない例外を除き、奥羽越列藩同盟に加盟しました。

しかし長州藩には、孝明天皇の憎しみをかい、朝敵とされた怨恨があります。

長州藩士らは禁門の変のあと【薩賊会奸】と履物に書き付け、踏みつけていたほど。薩摩とは和解しましたが、会津には憎悪しかありません。

ここで会津はじめ奥羽諸藩を倒してこそ、自分たちの新政権を倒そうとする抵抗勢力はいなくなるはず。そんな思惑もありました。

このあたりにも、きな臭さがつきまといます。

長州藩内でも、会津藩に寛大な処分を求めた広沢真臣がおりました。

広沢真臣/wikipediaより引用

彼は米沢藩の雲井竜雄と協力しておりました。

雲井龍雄/wikipediaより引用

これに対して、会津藩強硬処分を求めたのが木戸孝允です。

そして結果は……雲井が明治3年(1870年)2月、反逆者として斬首。

広沢は、明治4年(1871年)1月、暗殺されてしまいます。

こうして、長州藩内にすらあった会津への寛大な処置という見方は、歴史から消えていったのでした。

油壺のような奥羽に、火をつけた男がおります。

倒幕側が派遣してきた世良修蔵たちです。彼らの傲慢さは、奥羽越列藩同盟側の神経を逆撫でします。

遊女を侍らせながら傲慢な態度を取る世良に、奥羽の武士たちは神経を逆撫でされていました。

この世良は、出羽方面に展開していた大山格之助に、こう書いた書状を送ったのです。

「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」

【訳】奥羽は皆敵だからぶっ殺す

この書状を見た仙台藩士の怒りが限界に達し、世良は殺害されました。

世良修蔵/wikipediaより引用

戦争回避の道は、どんどん遠ざかってゆきました。

どうやら奥羽や越後へ派遣された人たちはトラブルメーカーばかり。

出羽の大山格之助、越後の岩村精一郎などです。

西軍内部から見ても、あの人選はどうにかならないのかと思われていたほど。

はなから、そういう意図があったのでしょう。

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