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【上野彦馬】
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写真館は赤字必至
江戸から戻った彦馬を迎え、長崎の人々はこう噂しました。
「ホトガラ狂いが戻ってきたと!」
歓迎ムードどころか、正気を失っているとすらみなされていたのです。
写真は、どのような扱いをされていたのか?
というと、これより前の1860年(万延元年)の万延元年遣米使節は、現地で幕府の使節たちが硬い顔で写真におさまっております。

万延元年遣米使節/wikipediaより引用
同年の遣欧使節団では、福沢諭吉はじめ、リラックスした笑顔で写真におさまる人もいたものです。
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それも彼らが、最先端の学問を学んでいたからこそ。
当時は、カメラ好きの島津斉彬に、写真モデルを頼まれた薩摩藩士2名が、「魂を吸われたくない」と切腹したこともあったほどでした。
そんな時代です。
当然、長崎の人々も事情は大して変わりません。
鶏卵紙を使った写真をするようになってからは、上野家には卵の殻がどっさりと置かれていたため、「カステラを作ったらよか!」と助言してくる者もいたとか。
彦馬の写真に、周囲の理解はなかなか追いつかなかったのです。
そんな中で写真館を経営することが、どれほど大変であったことか。
儲かるどころか、大赤字でした。
・モデルに多額を払わねばならないのに、撮影料ゼロ
→撮影というよりも、実験に付き合わされる感覚でした。定着するとお礼を持ってくる者もいたものの、野菜や酒等、現物です。
・「上野撮影局前の溝には、血が流れとるたい」「キリシタンの魔術と!」
→化学薬品実験のせいもあって、黒魔術をしていると信じられたとか。
・化学薬品はともかく高い!
→材料確保も、実験も、大変です。一から作るものですから、並大抵の苦労ではなかったのです。
黒字になるどころか、破産すると家のものが口をこぼすほどでした。
幕末に生きたものの姿を残す
そんな赤字経営でもどうにかやっていけるようになるのは、幕末という時代の流れのおかげでした。
来日外国人が、日本で記念撮影をしたのです。
彦馬が撮影する風景や、遊郭の様子も、お土産には最高。彼ら外国人と取引をするため、政治活動に熱心な者たちも長崎を訪れるようになります。
そうです。
はじめのうちは外国人ばかりであった顧客の中に、彼らも加わるようになったのです。
彼らの多くが、敵対勢力から命を狙われておりました。
そんな時代に、自分の生きた姿を残したい――と、カメラの前でポーズをつけ、金を惜しまず払うようになるのです。
後藤象二郎も、そうした被写体の一人です。
坂本龍馬も、上野撮影局の顧客でした。
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龍馬の撮影者こそ彦馬の弟子である井上俊三ですが、上野撮影局のスタジオに龍馬がいたことは確かなのです。

坂本龍馬
弟・幸馬や弟子たちとともに写真に打ち込みながら、彦馬は確信します。
『写真師という職業は、これからこの国で定着するぞ』
上野撮影局とほぼ同時、1862年(文久2年)には、横浜で下岡蓮杖が写真局を開業しておりました。
そのため日本の写真の祖は「東の下岡蓮杖、西の上野彦馬」とされています。
彼らは幕末の歴史的な人物だけではなく、街並み、来日外国人、庶民、風俗……様々な姿を写真に残しました。
パイオニアは引っ張りだこに
そして迎えた幕末から明治期にかけて、彦馬は引っ張りだこになりました。
肖像や風景だけではなく、様々なものにシャッターを切ったのです。
それは一体どんなものだったのか?
◆証拠写真
幕末は、血なまぐさい攘夷事件が多発していた時代でもあります。
殺傷された外国人の遺体、刑死された生首といった写真も、結構な数が残されております。
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現場の証拠保全のため、彦馬も事件現場で撮影をしました。
警察誕生前夜、証拠をおさめるカメラマンはいたのです。
一例としてヒュースケンの遺体写真も、残っています。
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◆日本初の天体写真
1874年(明治7年)。
金星の太陽面通過という天体現象が起こります。およそ一世紀ぶりという珍しいものでした。
しかも、欧米では観測できません。
日本、中国、インド、満州といったアジアに、世界から撮影隊が派遣されました。日本でも、海軍が観測を行っています。
アメリカからやってきたダビッドソンの隊に、彦馬も参加。残念ながらこのとき撮影した膨大な写真は紛失し、未発見です。
それでも彦馬にとって、大きな経験であったことは確かです。
◆日本初の戦場カメラマン
日本史上初の戦場カメラマンともいえる、それが彦馬でした。
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発すると、彼と弟子たちは戦場を写真に収めることとなりました。
まだ写真への理解が足りず、費用を申請すると高すぎないかと言われることもあったとか。
絵から写真へ。
戦争を残す技術も、かくして変貌してゆきました。
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◆アート写真
明治は、キリシタンの魔術であった写真が、芸術とみなされるようになった時代でもありました。
1877年(明治10年)の第一回内国勧業博覧会では、彦馬の写真が鳳紋賞を獲得。
「実に無比の芸術と云うべし」
そんなコメントを受けたのです。
こうなると、彦馬の元に続々と弟子も集まって来ます。
様々な工夫を凝らし、美麗な写真、実物よりも印象的なものを撮影すべく、彦馬は邁進したのです。
◆肖像写真
明治20年代ともなると、明治天皇と皇后、海外の王族の写真がブームに。
彦馬は引っ張りだこで大忙しです。

長崎でのニコライ皇太子・この有名な一枚も上野彦馬が撮影したものです/wikipediaより引用
それだけではない、プライベートな肖像写真も、ブームとなります。
来日外国人が自分や家族のみならず、現地で作った恋人の写真撮影を頼んできていたとか。
『お菊さん』で知られるロティは、長崎の上野という写真家のことを書き残しています。
それだけ有名だったのでしょう。

ピエール・ロティ/wikipediaより引用
明治37年(1904年)に享年67で亡くなるまで、彦馬は写真家として満ち足りた日々を送りました。
忙しくも、飽くことのない、充実した人生でした。
写真のちょっと気まずい使い方
こうまとめますと、写真は消えゆく日本の原風景や、江戸の人々を残したものと思えて来ます。
これも上野彦馬がパイオニアかつ、表舞台に残っているからこそ。名もない、あるいは残さなかった写真家もいます。
その使い道も、綺麗なものだけではもありません。
ちょっと困った使われ方も見てゆきましょう。
◆グロ画像をお土産に
証拠写真であればまだよいものの、生首がお土産写真になったというのですから、洒落になっておりません。
この困ったブームは、江藤新平の生首写真によって問題化し、やっと終止符が打たれたのでした。
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◆美女とエロ画像で一儲け
どうせなら美人の写真が欲しい!
そういう欲求は、当然ながらあるものです。
「お歯黒と眉剃りをした既婚夫人はどうかと思う。しかし、日本人女性の切れ長の涼しい目と黒髪はセクシー。お土産にちょうだい!」
そんな外国人の要望もあり、日本人女性を撮影したブロマイドも人気があったものです。
来日外国人はしょうもないな〜、と思いますか。
確かに、遊郭に入り浸る、覗きをする、そんな人もいました。
中には、外国からいやらしい写真を持ってきて、日本人に売り払うということも……お互い様です。
しょうもない交流は、幕末からありました。
明治時代も、美人コンテストの上位入賞者のグラビアは大人気でした。

陸奥亮子(1888年頃、亮子33歳頃の写真)/wikipediaより引用
◆なりきりや自作自演写真
幕末から明治の写真は、どう考えても顔が引きつっていたり、不自然なものが結構あります。
演出をしているからです。
お土産になるからと、お白州で裁いている場面を演じたり。美少女が集まっていたり。
緊張感や納得できていない表情にも味があるものです。

尻鞘を被せた太刀を佩く武士(撮影:臼井秀三郎)/wikipediaより引用

切腹の様子(明治時代の芝居)/wikipediaより引用
◆コラージュもあり
写真のコラージュや修正は、誕生と同時にありました。
これぞ元祖Photoshopです。カラーでないモノクロのぶん、ばれにくなったかもしれません。
アングルが気に入らないとか。もっと美形に見せたいとか。
割と気軽にコラージュはされていたようです。
肖像写真であれば大問題ですが、お土産ポートレイトではありとみなされたようですね。
時代がくだり明治となりますと、一発でバレるパロディコラージュもできました。
アスリートの体に、政治家の顔を組み合わせるようなものです。
風刺画ならぬ、風刺コラ写真ですね。
◆修正だってあり
修正で有名であるのが、土方歳三です。
彼に出会った人が揃って美男子と証言するトシさん。そのブロマイド写真はお土産として人気でした。
せっかくだからもっと美形にしちゃえ!
そんなノリで、皺を消して目をパッチリとさせた写真が流通したのです。

こちらは修正前の土方歳三/wikipediaより引用
現在は修正前が多いものですが、古い書籍では修正後を掲載していることがあります。気になる方は、ご確認ください。
確かに修正後の方がキラキラ感はアップしていますが、ちょっとわざとらしいものを感じます。修正前で十分美男子ですよ!
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◆あの顔とボディを合成して!
さて、コラージュですが。
それはあの禁断の欲求を叶える技術でもあります。
エロ画像も、どうせなら理想の顔と、肉体であれば言うことはないわけです。
明治時代には、顔は日本髪の日本人、肉体は西洋人というエロコラ画像が出回っていたとか。
人間の欲求は、明治もそんなものでした。
◆コスプレをしよう!
コスプレ写真も、幕末からあります。
甲冑姿でポーズを取る侍の写真は、ぎこちないものがあって味わい深いものです。
来日外国人が、武士のコスプレをした記念写真もあります。なかなか微笑ましくて、味わいがこれまたあるものです。
大物コスプレイヤーといえば、明治の徳川慶喜でしょう。
謹慎して駿河で楽隠居状態になってからは、趣味の写真をバチバチ撮りまくる日々でした。しかも、コスプレとしか言いようのないものも多いのです。
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幕臣は貧困で苦労したものですが、将軍ともなればそうでもありません。
明治時代をコスプレはじめ趣味に生きた慶喜こそ、究極の勝ち組という気がしない訳でもありません。

狩猟姿の慶喜/wikipediaより引用
写真に「いいね!」をつけて欲しい。
インスタ映えする写真を撮影したい。
コスプレ姿を写真で残したい。
コラ画像で楽しみたい。
エロい画像、グロい画像をこそこそ見たい。
こうした欲求は、現代人特有の病理のように思われがちです。
そんなことはありません。幕末明治、写真が伝来したころからありました。
当時の偉人の写真を見ていると、なんだか素晴らしい時代のように思えます。
が、いやいや、それだけではありません。
カチコチに緊張してカメラの前に立った人。
エロ画像を見て興奮していた人。
美人の写真を集めて喜んでいた人。
そういう無名の人も、大勢いました。
人間とはそういうものなんですね。
なんだか彼らに親しみを持てませんか?
そんな幕末や明治の写真を、ぜひご覧いただければと思います。
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文:小檜山青
【参考文献】
八幡政男『上野彦馬―幕末のプロカメラマン (1976年) (文明開化の先駆者たち〈1〉)』(→amazon)
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