一番有名なのは、大老・井伊直弼が【安政の大獄】などの反発を喰らって殺された【桜田門外の変】ですかね。
幕末の中でも極めて物騒な事件として知られます。
しかし、この時代には他にも恐ろしい事件があり、超有能だった政治家が表舞台から追いやられてしまってます。
文久二年(1862年)に起きた【坂下門外の変】です(桜田門外の変から2年後)。
老中の安藤信正が襲撃され、そのとき負った傷がもとで罷免へと追い込まれました。
ただし信正が亡くなったのは事件直後ではありません。
明治4年(1871年)10月8日のことです。
それまで一体何が起きていたのか。
襲撃された事件を中心に信正の生涯を振り返ってみましょう。
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老中・安藤信正が襲われた坂下門外の変
安藤信正の功績は、まず【桜田門外の変】の後始末をやってのけたこと。
当時は十四代・徳川家茂が将軍職に就いたばかりで、しかも12歳という幼さでした。
そんなときに幕閣トップの大老が暗殺されたと世間に知れたら、一大事どころではありません。
直弼暗殺の理由の中には、開国させられたことへの不満も含まれていたからです。
事件の以前に直弼や信正は、水戸藩に下されていた【戊午の密勅】を朝廷へ戻すよう強行に迫り、なんなら「潰しますよ」と威嚇もしていました。
これを許せぬ攘夷思想バリバリの水戸藩出身の者たちが、桜田門外の変という前代未聞のテロ行為へ走ったのです(一部の薩摩藩士も参加)。
こうしたバカでかい不祥事が立て続けに起きたことが、もし朝廷の耳に入れば「だから開国なんかすんなって言ったのに!もう幕府なんていらんわ!!」となるのは目に見えていました。
被害者が悲惨すぎる「襲われたほうも悪い」という理屈
そこで安藤信正を始めとした幕閣は、直弼暗殺の事実を隠しに隠します。
うっかり直弼がコロされたことを正直に公表すると
「よっしゃ、彦根藩も取り潰しね! 譜代だけど襲われたんだから仕方ないよね!」
という誰も得しない事態になってしまうおそれがありました。
もしかすると、元禄赤穂事件の教訓から「喧嘩両成敗」が不文律になっていたのかもしれません。
この件については世間でいろいろ狂歌が詠まれていますので、江戸っ子にはバレバレだったようですが。
なにはともあれ、後に残された信正たちはもう一度幕府を安定させるべく奔走します。
公武合体の方針も、信正が「朝廷と穏便にやっていきましょう。私に考えがありますから」と考え出したものです。
大雑把にいえば、信正は家茂と和宮の仲人ということになりますかね。
その他にも世情を安定させるための経済政策を打ち出すなど、家茂の治世を支えました。
なんせこの間、アメリカ公使館の通訳・ヒュースケン(本人はオランダ人)が薩摩藩士にブッコロされる、国際問題モノの事件が起きています。
これを穏便に処理したのも信正でした。
幕府ひいては日本が賠償金を負わせられたり、なにかと不利な交渉材料にされたり、粗暴な攘夷派の連中は本当にムチャクチャです。
もし信正以外の人間が担当していたらどうなっていたやら……。
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