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【安藤信正】
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桜田門外に続き、また水戸藩から
しかし、こうした信正の苦労が通じない不届き者も世間には存在していました。
あっちこっちの反幕府派です。
そして年明け間もない文久二年(1862年)1月15日、登城中の信正に水戸浪士の一団が襲い掛かります。
実行犯の中には、渋沢栄一の従兄弟で攘夷仲間でもある尾高長七郎と親しい河野顕三もいました。
他に水戸藩の天狗党に繋がる過激集団のメンバーも含まれていましたが、そもそもが杜撰な計画。
桂小五郎からは事前に止められていたほどです。
幕府サイドも、直弼が暗殺されて以降、警護を厳重に行っていました。
このときの信正には数十人のお供をつけており、たった数名だったテロ実行者たちをあっという間に返り討ちにしています。
しかし完全に防ぎきることはできず、信正の乗った駕篭に銃撃や刀が突き刺さり、信正は背中に軽傷を負いました。
これが彼の運命を決めてしまうことになります。
軽傷も背中に傷が政治的に大ダメージ
武士にとって背中の傷は恥でした。
「敵に背中を向けていた」=「逃げようとした」ことになるからです。
これと上記の「喧嘩両成敗」が結びつき、信正は「敵前逃亡とは武士にあるまじき行動!そんなやつに老中は任せられん!」という滅茶苦茶な理由で罷免されてしまいました。
一時の恥にこじつけ、それまでの実績を一切無視してクビとかあんまりですよね。
こうして縁の下の力持ちだった信正は、罷免された上に半年後には隠居+蟄居(無期限の外出禁止)をくらうという理不尽な目に遭ってしまうのです。
もし家茂がこの頃もう少し年長で、自分の意思で幕政を取り仕切ることができていたら、止めることもできたかもしれません。
しかし、残念なことに将軍後見職という名のお目付け役に頭を抑えられていたため、それはかないませんでした。
信正が中央から去って以降の幕府はさらに求心力を低下させてしまいます。
そもそも御三家の一つである水戸藩が幕府を毀損させる行動ばかりしているので仕方ありません。
かなりはしょって言いますと、この後、生麦事件やら薩英戦争やら長州征伐やら薩長同盟やら……なんだかんだで悪い方向へと転がり落ちていくことになります(以下はその関連記事です)。
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実はこの時代、世界の事情や先行きを最も見通せていたのは幕府でした。
攘夷運動で盛り上がっていた薩摩も長州も、上記の事件で外国勢と戦うことの思慮浅さを反省し、武器の供与などを手配してもらう協力体制に変更しています。
幕府が妙な判断で安藤信正のような人材を外してしまったのは残念でなりません。
なお、幕政での職を追われた安藤信正は、蟄居や減封などの不遇を経て、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が始まると、奥羽越列藩同盟に参加。
敗れて再び蟄居という憂き目に遭っていますが、戦場に立つことを選び、頭脳派の政治ばかりでなく根が武士だったことを感じさせます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安岡 昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
安藤信正/wikipedia