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【井伊直弼】
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詳細は後述しますが、肝心の朝廷の本音も「アメリカとの条約内容なんて、どうでもええわ」だったと思います。
孝明天皇をはじめとして、朝廷の外国嫌いは、度を超えてました。
「異人は嫌い、犬猫と同じ、あいつらの意見なんて絶対に受け入れられない」
そんな強烈なアレルギーの持ち主なのです。
異人と交渉しただけでもゾッとする、ありえへん、という状態でした。
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結局、江戸から京都へ向かった堀田による調停工作が失敗に終わると、直弼は勅許を得ずに条約を結んでしまいます。
これについても、注意が必要です。
兵法書として知られる『孫子』に「拙速は巧遅に勝る」という言葉があります。じっくりと丁寧に考え実行に移すよりも、多少荒っぽくとも手早く済ませたほうがよい、という意味です。
直弼の姿勢には、この言葉に通じるものがありました。
朝廷を疎かにするのではなく、先に条約を締結させてから朝廷と協調して歩むことを目指したのです。
ザンネンながら、朝廷との交渉に失敗した堀田は、老中の座を追われてしまいました。
が、直弼にとっては一時的なものであり、あとで堀田を復帰させるつもりでした。
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開国が何かわからないけど嫌だった人たち
勅許を得られないまま、堀田が江戸に戻った三日後。井伊直弼は、大老として就任しました。
大老となった直弼は、テキパキと行動します。
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その際、反対派に違勅の罪を責められ、調印中止を諫言した宇津木景福に対して、直弼はこう言いました。
「今戦っても、勝ち目はない。むやみに開国を拒んで負けてしまえば、国体を恥かしめることにもなる。しかし、勅許を得ずに開国した罪は、甘んじて受ける」
直弼の元には、条約の件で徳川御三家が押掛け登城してきました。
しかし、直弼はこれにも動じません。
そしてそのまま、南紀派の徳川慶福(のち将軍・徳川家茂)を将軍継嗣とする旨を公表したのでした。
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あくまで直弼は、公武が一致して難局に当たるべきだと考えていました。
その直弼の構想の足を引っ張ったのが、水戸の徳川斉昭です。
彼は姻戚関係を通じて朝廷工作を行い、自分を追い落とした堀田の失敗を狙っていたわけです。
キリシタンバテレンという国はどちらにありますのやろ?
この難局において、外交についても政治についても素人である公家を巻き込んだのは、大きなマイナスになったと言えます。
勝海舟は、こう言い残しています。
「当時の朝廷で開国が理解できていたのは、皇族では山階宮(山階宮晃親王)、公家では堤中納言(堤哲長)だけだった」
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二人は、当時の京都においてはかなり異色の人物でして。堀田はとある公家との会話中に、こう言われたそうです。
「ところで、キリシタンバテレンという国は、どちらにありますのやろ?」
こんな感じです。こんなレベルです。
異人というのは耶蘇のあやしい教えを信じていて、穢らわしい犬猫のようなものだから、ともかく追い払え――そんなレベルなのです。
政治的な能力も、実務から離れて長い年月が経過しています。
ハッキリ言ってしまいますと、外交政策も、知識も、実務能力も、経験も、幕府はトップレベルでした。言われているほど悪くないのです。
曲がりなりにも、二世紀以上政権運営をしてきたのですから、そりゃそうですわ。ノウハウは蓄積されており、少なくとも公家よりは断然マシ。
「開国ってなんどす?」という方たちを、ただ自分の政敵を追い落とすがために引き込んだ斉昭は、やはり反省すべき点があるのではないでしょうか。
水戸の朝廷工作が最悪の結果に
さんざん朝廷に悩まされてきて、それでも公武合体して何とか歩んでいこうとしていた直弼。そんな彼にも、忍耐の限界はあります。
それは、水戸藩に【戊午の密勅(ぼごのみっちょく)】がくだされていたことでした。
公武合体して足並み揃えようというときに、水戸藩とそれに賛同した学者たち、そして公家がよりにもよって、正式な手続きも得ないまま、密勅を得ていたのです。
苦労してまとめた条約調印を批判し、攘夷を断行しろというものでして。もう、無茶苦茶理不尽です。
幕府は堀田らを派遣して、説明しようとしていました。
それなのに「ともかく異人嫌いはなんどす。攘夷しとくれやす」で押し切られるのです。
とにかくお話にならない。言う事聞いてアッチコッチで黒船を相手にドンパチやったら、それこそ列強の侵略を許しかねません。
正直この状況は、直弼でなくともキレてしまうのではないでしょうか。
直弼だって好きで調印したわけじゃない。ただ、攘夷を今やろうにも無理。だからの開国です。
直弼の中で、決定的な何かが弾け飛んだのでしょう。
その結果が【安政の大獄】でした。
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暴力、流血、天誅、粛清、テロルの時代
政敵を次々に処罰していった【安政の大獄】。その反動は、直弼自身の身にふりかかりました。
安政7年3月3日(1860年3月24日)。
牡丹雪の舞う朝、直弼は刺客の手にかかり、最期を遂げます。
享年46。
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井伊直弼の死は、残念ながら世の中を動かしました。しかも日本の政局を不気味な方向へ。
すなわち、天誅の時代です。
幕府の大老ですら、白昼堂々と斬首できたという事実は、タガを外してしまったようです。
相手を殺してでも自分の意見を押し通す――。
不都合な相手は殺してしまう――。
そんな行為が、大手を振ってしまうようになるのです。
幕臣の江間政発は、カオスに陥った状況を評して、こんな言葉を残しました。
「幕末の攘夷とは、反対派を叩き潰す看板である」
これが当時を生きた人の実感でなのです。
そこに思想なんかありません。
むろん真っ当に行動する者もおりましたが、反対派は剣で黙らせた方が手っ取り早い、と考える方が当たり前の時代になりました。
暴力による解決は、思想や立場は違えど、多くの者がとった手段であったのです。
明治新政府が成立してからも、大久保利通はまさにこのような理屈のもと、刺客の凶刃に斃れることになります。
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一本気な性格も何かと災いしてしまい
井伊直弼の外交政策ならびに将来的な方針。その構想自体は間違っていませんでした。
むしろあの時点では、最も正解に近い答えを出していたのかもしれません。
「天皇を中心とした国作り、開国政策」は明治政府も行った政策と一致しています。公武合体についても、当時としては正解とも言えるやり方でした。
彼自身も超人的な才能を発揮しており、部屋住み時代にはその優れた資質を磨き上げてもいます。
先に述べたように居合術、茶道、禅……様々な分野で一流の人物であったのが何よりの証左でありましょう。
ただ……それでもやっぱり【安政の大獄】&【桜田門外の変】がもたらした負の影響は大きかった。
後世の「勝者の歴史」によって最悪の印象で描かれるには仕方ないにしても、もう少し柔軟に対応できていれば……と思わざるを得ないのですが、実は一方で、一本気な直弼の性格というのもあるようで。
やはり
「将軍家の先鋒であれ」
という、井伊直政以来の思いが根底にあると感じるのです。
井伊直弼は不当な評価を受けています。
倒幕派からは忌み嫌われ、幕府からも会津藩の松平容保のような忠臣という評価を受けることはできません。
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コワモテの悪役。大河ドラマはじめ幕末もののエンタメにおいて、これからもこうした姿は上書きされていくことでしょう。
ただし、彼の実像はそんなに単純なものではありません。
将軍家の先鋒として生きたゆえの非業の死――それが赤鬼井伊直政もとい井伊直弼なのです。
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文:小檜山青
【参考文献】
母利美和『井伊直弼』(→amazon)
別冊歴史読本『天璋院篤姫の生涯』(→amazon)
『国史大辞典』