幕末から大正までの動きを評して、作家の司馬遼太郎はこう書き残しています。
「明治維新から日露戦争までを一町内でやったようなものである」
うーむ、さすが大作家らしいキャッチーな言い回しで、なるほどそうかと頷きそうになります。
ただし「賛同できるか?」と問われたら即答できないモヤモヤもありまして。
維新の敗者である幕府や佐幕藩は、ともすれば「時代を見据えることもできない旧弊な人物ばかり」と思われがちです。
果たして本当にそうでしょうか?
歴史というものは時代によって捉え方が変わるものであり、現在、こうした「幕府派=全員凡人」という見方は修正されつつあります。
当時の記録を見ると、倒幕側の人間も、来日した外国人も、幕府派の中にも優秀かつ先を見据えていた人物がいたと見直されるようになったのです。
その代表的な一人が安政4年(1857年)6月17日が命日である阿部正弘でしょう。
ペリー来航時に幕府老中だった阿部は、かなりの切れ者。
先見の明がある人物でした。
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幕末の動乱序盤で惜しまれる早期退場
阿部正弘について知るとまず驚かされるのは、その生涯の短さです。
文政2年(1819年)に生まれ、安政4年(1857年)に死没――40年にすら満たない人生です。若くして見いだされ、そして不惑を前に世を去るという、彗星のような人物でした。
活躍期間をみますと、豊臣政権下で官僚として活躍した石田三成と似たような状況ですね。
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幕末というのは他に短命の人物も多いため、比較するとさほど短くはないかもしれません。
しかし阿部の場合は、その才知が惜しまれる点と、幕末の動乱が本格化する前に世を去っている点が、より一層短命ぶりを感じさせるのです。
幕末序盤に出てきて、早期退場するという点では、島津斉彬や徳川斉昭も同じ分類とも言えます。
彼らはみな惜しまれる人物でした。
若き藩主から老中へ
正弘は、備後福山藩主・阿部正精の五男として生まれました。
天保7年(1836年)、死去した兄の跡を継いで藩主になると、わずか18才で10万石の藩主に就任。
さらにその4年後の天保11年(1840年)、幕府から寺社奉行に指名されると、今度は天保14年(1843年)に老中に任じられます。
阿部家は三河時代からの譜代大名とはいえ、そこまで出世を遂げるのはやはり優秀な人物であったからでしょう。
20代半ばで日本のトップに君臨し、水野忠邦が復帰した時期をのぞいて亡くなるまで、彼は老中として尽くしました。
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しかも彼は寛大な人物で、よく人の意見を聞きました。
たとえ相手が違う意見を持っていても、おおっぴらに反対するようなことはありません。相手の長所や使えそうなところを判断し、採用していたそうです。
ただし、そうした部分が「八方美人」とマイナス評価を受けることもあったそうですから、いやはや人の評価とは難しいものですね。
1853年浦賀 黒船がやって来る
嘉永6年(1853年)、黒船すなわちアメリカ籍の艦船4隻が浦賀沖に姿を見せました。
大河ドラマで何度も見た、おなじみの場面です。
「あれが富士山か。美しい島だな」
船上で提督マシュー・ペリーは、くっきりと見えた富士山の姿を見て満足していました。
黒々とした大砲は狙いを定め、兵員は銃を構えて、戦闘態勢万全。
「なんだ、ありゃ……」
一方、漁師たちは、見たこともないような巨大な船を目にし、呆然としていました。
彼らは奉行に駆け込んで、目撃したものを報告します。このとき浦賀の奉行には通訳がきちんといました。
幕府は、アメリカの船が長崎ではなく江戸を目指してやってくるという情報を事前につかんでおり、そのための通訳も用意していたのです。
ただ、現実逃避というか、日和見主義というか。
「来るかもしれないし、来ないかもしれないし……」
出来れば来ないで欲しいなぁ……と希望的観測をうっすら抱いていたのでした。
与力と通訳は小舟を漕がせて艦船に近づき、アメリカと交渉に入ります。
このとき、米国フィルモア大統領は武力行使や日本侵攻を企んでいたわけではありません。
ただし、武力をちらつかせることで、有利な交渉に挑む「砲艦外交」であったことは確かです。
対する幕府や阿部は?
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