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安政の大獄で師匠は処刑され
京都での伊藤は、山県有朋と親交を結びました。
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そのあと来原に率いられ、安政6年(1859年)まで長崎で修学。
江戸でも修行に励み、来原の義兄・木戸孝允(桂小五郎)の従者となって、志道聞多(井上馨)とも親交を結んでいます。
後に日本を動かす藩の中心メンバーと関わっていたんですね。
しかしこの年の秋、松下村塾にとっては大激震が走ります。
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処刑された原因は、
・外国への密航を企て
・幕政を批判したから
と誤解されがちです。
確かに、そうした要素もあったかもしれませんが、決定打は
・老中である間部詮勝の暗殺計画を建てていた
・しかもそれを自白した
ことでした。
そもそもこうした計画は松陰の暴走で、塾生たちも困り果て、止めに入ろうとしたほどです。
が、時すでに遅し。江戸にいた伊藤は、師匠の遺骸を引き取りました。このとき彼は、まだ18歳。
そして松陰の死から、松下村塾の面々は様々な道を歩むようになります。
彼らの存在アピールに欠かせなかったのが、より激しい攘夷です。
文久2年(1862年)、松下村塾生は【公武合体論】を主張する長井雅楽の暗殺を画策。
そして同年8月、伊藤にとって師であった来原が自害してしまいます。来原は、長井雅楽の政策を支持しており、それが通らないことに苦悩していたのです。
過激化していく時勢の中で、伊藤も傾倒。
この年の12月には、品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加しています。
そこで山尾庸三と塙次郎忠宝・加藤甲次郎を斬殺し、21歳にして、尊皇攘夷派の過激な活動家になったのでした。
攘夷よりも、海外へ
しかし伊藤は、他の松下村塾生とは異なる道を歩むことになりました。
前述の通り松下村塾生の主力は、激しい攘夷活動に打ち込み、その結果、明治維新まで生き延びられずに斃れた人物がたくさんいます。
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伊藤がこうした同門と袂を分かった一因が、吉田松陰以外に来原良蔵という師匠がいたことも大きいようです。
文久3年(1863年)、伊藤は尊皇攘夷の支持者であるということから、準士雇(じゅんさむらいやとい)に出世しました。
このように、長州藩で出世するためには攘夷思想=外国排除が必須のはずです。
しかし、伊藤には生涯の師と慕っていた来原から受けた教えもありました。
それが実ったからこそ、イギリスという異国へ留学することになるのです。
1863年、井上馨と共にイギリスへ。
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久坂は「攘夷より他に道はない」と止めましたが、伊藤の決意は固いものでした。
このときの留学生は【長州五傑(長州ファイブ)】と称されます。
【長州五傑】
・遠藤謹助(上段左)
・野村弥吉(上段中央)
・伊藤俊輔(上段右)
・井上聞多(下段左)
・山尾庸三(下段右)
ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに在学した伊藤の留学期間は半年程度。その後、イギリスの軍艦で帰国することになりました。
ヴィクトリア朝大英帝国の国力をまざまざと見せつけられ、このときから開国派に転換します。
長州藩の危難
帰国した元治元年(1864年)当時、長州藩ではさらなる大激動に見舞われておりました。
池田屋事件の一ヶ月後であり、【禁門の変】が起こる直前のことです。
伊藤と親しくしていた吉田稔麿も、同事件で斬殺されておりました。
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こうした一連の事件で、松下村塾の俊英たちは、久坂玄瑞、入江九一と、次から次へと散ってゆきます。
しかも長州藩は孝明天皇から激しい憎しみを買っていたばかりか、今度は下関から攘夷を繰り返して連合艦隊に反撃され、いよいよ窮地に陥るのです(下関戦争)。
このとき伊藤は通訳として奔走。長州藩とイギリスは接近するようになります。
ライバルのフランスが幕府を支持していることから、イギリスは倒幕勢力に着目していたのです。
さらには、この和平交渉において、伊藤は将軍と天皇の攘夷命令を相手に渡し、これを機に、各国は幕府に賠償金支払いを迫るようになります。
「賠償金に圧迫された幕府さえ倒れれば?」という待望論が広がるキッカケにもなりました。
そして度重なる困難の中、長州藩では幕府への恭順も辞さない「俗論派」が台頭。強硬に反幕府と攘夷を唱える「正義派」と対立します。
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結果は「正義派」が勝利します。
高杉晋作の決起に駆けつけたことを、伊藤は生涯の誇りとしました。
が、英国帰りで開国に傾いていた彼にとって、強硬な攘夷が優勢になることは頭の痛いことでもありました。
さぞかし複雑な胸中であったでしょう。
慶応3年(1867年)、伊藤は準士雇から士雇に出世します。
幾度かの危機を乗り越える中、倒幕への思いが強まっておりました。
前年、薩長同盟を結んだ薩摩藩、坂本龍馬の属する土佐藩ともども、倒幕への志を練っていたのです。
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とはいえ、第二次長州征伐、戊辰戦争においてはさして活躍することもありませんでした。
武器調達といった裏方に携わるだけで、むしろ暇をもてあましていたほどだったのです。
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新政府、始動
明治維新は、なんとも不思議なものです。
幕末に志士として名を成すには攘夷が必要だったのに、新政府となってからは国際社会と交渉する力が問われるわけですから。
その点、イギリス留学の経験がある伊藤は、新政府から重用されます。
明治元年(1868年)。
伊藤博文と改名した彼は、外国事務掛、兵庫県知事と大抜擢を受けました。
さらに翌明治2年(1869年)には大蔵少輔兼民部少輔となり、同四年は租税頭、工部大輔に累進。
この年の10月、岩倉使節団にも参加しました。
木戸孝允や大久保利道と並ぶ特命全権副使であり、今度は2年に及ぶ長期間で欧米視察を遂げるのです。
伊藤の真価は、博文と改名してから発揮されました。
詳細は後述しますが、初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法成立、日清戦争・日露戦争と二度の苦難を乗り切ります。
足軽の子から一国のトップにまで成り上がった――とは、まるで豊臣秀吉ばりの出世ストーリーでしょう。
ただし、この使節団、問題がなかったとも言い切れない部分がありまして。
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明治6年(1873年)に使節団が戻ると、早速、政府内では【征韓論争】が勃発します。
伊藤はこれに対して、岩倉具視・木戸・大久保らとともに、「内治優先」を掲げ、否定の立場を貫きました。
まだまだ国内統治の整備および近代化が優先されるという考え方です(「明治六年政変」)。
伊藤とともに近代化に貢献したのは、大隈重信でした。
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ただし大隈は、実力抜群ながら伊藤とはたびたび意見の相違もあり、政府への出入りを繰り返すような状況です。
薩長土肥の藩閥政治の中、トップクラスの大隈がこのような状態は、惜しまれることではありました。
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