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【村田新八】
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その人柄が薩長の和解にも役立った!?
村田や西郷が京都入りした夏に【禁門の変(蛤御門の変)】が勃発(1864年)。
長州藩と会津藩の争いに、薩摩藩は当初、加勢しないはずでしたが、長州藩が朝命に背いているとして、途中から攻撃に加わります。
そして薩摩藩が加わると、争いは途端に決着。この戦闘に村田も、参加していました。
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京都の村田は、西郷や大久保とともに活動していたと思われます。
というのもそこには薩摩の郷中をそのまま移したような薩摩藩士のグループができており、郷中行事であった「赤穂義臣伝輪読会」が行われた記録もあります。
慶応元年(1865年)からの薩長間での和解には、村田の人間関係も役立ちます。
というのも、村田は、長州藩に亡命した土佐藩士・土方久元と懇意でした。
坂本龍馬や中岡慎太郎もそうですが、土佐藩士は薩長間の調整に役立つ存在です。
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薩摩藩士も、長州藩士相手にはいきり立ちながら、土佐藩士ですとそういうわけにもいかないのです。
要は、間に入る中心人物だった村田の人柄、人脈が活かされたわけですね。
村田は、慶応2年(1866年)の薩長同盟前後にも、調整役として活動しています。
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西郷らの大きな影に隠れがちですが、村田のような人々も、この大きな和解において尽力していたのです。
戊辰戦争
王政復古や坂本龍馬暗殺など、時代が大きく展開した慶長3年(1867年)。
村田は、京都守護職屋敷前で会津藩士と斬り合いになり、負傷してしまいます。
この負傷の影響が響いたのでしょうか。
村田は、他の薩摩藩士と比較すると、戊辰戦争での活躍が目立ちません。軍人としてのキャリアは、ここで途切れて閉まった感すらあります。
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もっとも、これは負傷の影響だけとは言い切れないようです。
村田は桂久武から西郷の側を離れぬよう命じられていたという事情もありました。
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西郷のボディガードのような役目を果たしていたため、活躍が制限された可能性もあります。
岩倉使節団に参加、フランス留学
明治2年(1869年)、村田は鹿児島常備隊がつくられた際、村田が砲兵隊長となった――とされていますが、史料的には裏付けが取れておりません。
明治維新後、村田は負傷と疲労がたたったのか、しばらくは病気療養をしておりました。
出仕を求められても、積極的に応じることは難しかったようです。
そして明治4年(1871年)、村田は宮内大丞として岩倉使節団に参加します。
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旅の途中で思うところがあったのか、使節団を抜け、職を辞してまで、自費でのフランス留学を願い出ます。しかし……。
のちに村田は「この留学生活では何も得るところがなかった」と自嘲気味に書き残しております。
一文だけで判断するのは少し乱暴かもしれませんが、素直でユーモアを持ち合わせた方だったような一面が見えてきますね。
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