村田新八

村田新八の肖像と南洲墓地にある墓石/いずれもwikipediaより引用

幕末・維新

大久保と西郷の間で揺れた村田新八~悲運のラストと42年の生涯まとめ

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西郷と大久保のはざまで

明治7年(1874年)、村田は帰国しました。

その心中は穏やかではなかったことでしょう。当時、政局では征韓論が勃発していたのです。

「これは西郷と大久保の争いだ」と、村田は悟っていました。

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両者と親しい村田です。心中は辛いものがあったことでしょう。

二人の言い分を聞こうと、村田は心に決めます。

まず大久保の言い分を聞いた村田は、次に鹿児島にいる西郷のもとへ。

村田は、大久保の理屈に理解を示しました。

しかし、心情的には西郷についてしまうのです。

「西郷とは離るべからざる関繋(かんけい)だから」

村田は、周囲にそう語っています。

人を引きつけてやまない西郷の魅力。

その魅力は、マイナスの方向に動き始めたとき、周囲の人々を一緒に不幸へ呑み込んでしまう性質のようで……。

村田もその一人でした。

 

西南戦争に散った父子

帰郷した村田は、西郷と共に生きる日々に戻りました。

そして時代は、明治10年(1877年)の西南戦争へと向かってゆきます。西郷と離れられない村田も時代のうねりに巻き込まれました。

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村田だけではありません。彼の二人の息子も従軍していました。

このうち、長男・岩熊は19の若さで戦死。

村田は岩熊戦死の報告を受け取ると、「死に場所を得たのだ」とだけ言い残しました。その胸中は複雑なものであったことでしょう。

明治10年(1877年)9月24日、城山の戦いにおいて、西郷とともに村田は戦死しました。

胸には銃弾がめり込んでいたと伝わります。

享年42。

西郷と生き、西郷とともに死す。まさに離れられない関係。

音楽を愛した村田が、アコーディオン(風琴)を戦中でも演奏していた――そんな描写がなされることがあります。

確かに彼は音楽をこよなく愛していました。

思わずその音色を想像してしまいますが、西南戦争時に演奏していたという記録はないようです。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
桐野作人/則村一/卯月かいな『村田新八 (歴史新書)』(→amazon
『国史大辞典』

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