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【村田新八】
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西郷と大久保のはざまで
明治7年(1874年)、村田は帰国しました。
その心中は穏やかではなかったことでしょう。当時、政局では征韓論が勃発していたのです。
「これは西郷と大久保の争いだ」と、村田は悟っていました。
西郷は死に場所を探していた?征韓論から明治六年の政変が激動だ
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両者と親しい村田です。心中は辛いものがあったことでしょう。
二人の言い分を聞こうと、村田は心に決めます。
まず大久保の言い分を聞いた村田は、次に鹿児島にいる西郷のもとへ。
村田は、大久保の理屈に理解を示しました。
しかし、心情的には西郷についてしまうのです。
「西郷とは離るべからざる関繋(かんけい)だから」
村田は、周囲にそう語っています。
人を引きつけてやまない西郷の魅力。
その魅力は、マイナスの方向に動き始めたとき、周囲の人々を一緒に不幸へ呑み込んでしまう性質のようで……。
村田もその一人でした。
西南戦争に散った父子
帰郷した村田は、西郷と共に生きる日々に戻りました。
そして時代は、明治10年(1877年)の西南戦争へと向かってゆきます。西郷と離れられない村田も時代のうねりに巻き込まれました。
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村田だけではありません。彼の二人の息子も従軍していました。
このうち、長男・岩熊は19の若さで戦死。
村田は岩熊戦死の報告を受け取ると、「死に場所を得たのだ」とだけ言い残しました。その胸中は複雑なものであったことでしょう。
明治10年(1877年)9月24日、城山の戦いにおいて、西郷とともに村田は戦死しました。
胸には銃弾がめり込んでいたと伝わります。
享年42。
西郷と生き、西郷とともに死す。まさに離れられない関係。
音楽を愛した村田が、アコーディオン(風琴)を戦中でも演奏していた――そんな描写がなされることがあります。
確かに彼は音楽をこよなく愛していました。
思わずその音色を想像してしまいますが、西南戦争時に演奏していたという記録はないようです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
桐野作人/則村一/卯月かいな『村田新八 (歴史新書)』(→amazon)
『国史大辞典』