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【桐野利秋(中村半次郎)】
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赤松暗殺事件はこうして起きた
そんな彼が諜報活動の一環として手を下した事件があります。
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実はこの2人の死より少し前の9月3日、薩摩藩洋式兵学の師範・赤松小三郎が暗殺されています。
赤松は佐久間象山を輩出した信州上田藩出身で、著名な洋学者でした。
倒幕派、佐幕派分け隔て無く最新のイギリス式兵学を伝授。それまでオランダ式であった薩摩藩が、イギリス式の兵学を採用するにあたり大いに尽くしました。
イギリス式兵学書である『英国歩兵練法』を翻訳したのも赤松であり、これには中村の主君である島津久光も多いに喜んだと伝わります。
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そんな薩摩にとっても大恩人である赤松。
しかし、政治的な思想によって、難しい立場に追い込まれました。
赤松の考えは、幕府も薩摩も一体となって改革を目指す「幕薩一和」。会津藩の山本覚馬らとも交流がありました。
山本は、会津藩が戦争に巻き込まれない道を模索していました。彼が赤松を頼りにしてもおかしくはありません。
赤松は、倒幕派、佐幕派分け隔て無く接していました。それこそが、内戦を経ずに改革を成し遂げる道だと信じていたのです。
しかし薩摩藩にしてみれば、藩内の情報を会津や幕府に売り渡しかねないともみなせます。
薩摩藩の武力倒幕派の中では、赤松を消さねば情報漏洩を阻止できないという考えに傾いてゆきました。
身の危険を察知していた赤松は、薩摩藩を辞し、上田藩に帰還する準備を始めました。
以下、これまで伝わって来た筋書きです。
西郷でも止められない血の滾り
斬ると言ったら斬る——そんな性格の中村は、赤松に憤激。刀の柄を叩きながら、切り捨てる算段を仲間と始めたわけです。
「ここはひとつ、西郷さぁに聞いてみもそや」
すると西郷は、即座にこの提案を却下。
「ないごっな、赤松先生はわが藩の兵学師範じゃごわはんか。そげん天道にもとる話は聞いたこっも見たこっもなか」
しかし、中村は引っ込みがつかなくなってしまいます。
刀の柄を叩いて、斬ると言ったからには、斬らずにはいられません。たとえ西郷が止めようとも……。
さて、中村がそんなことを考えているとは思わない赤松。送別の宴会の席で、彼から子弟としての縁を切りたいと迫られます。
「敵軍に先生がいうと、本気で戦うこっができもはん」
なるほど、そういうことか。赤松は承諾し、絶縁の杯を受けました。
赤松はこれからどちらにつくかわかりません。敵になったとしても、全力を尽くそうというわけで、それは爽やかなことだと思ったかもしれませんが。
しかし、中村の本心は違います。
西郷は止めたものの、薩摩藩軍事機密漏洩を防ぐという名目をつければよか、と理由まで考えました。
「師弟でなにゃ、斬ってもよか」
京都で探索中、赤松に出くわした中村は、咄嗟にピストルに手を伸ばした構えた赤松を斬殺。
信州へ戻るため、赤松が出立する直前に、この凶事となったのです。
会津若松城では泣きに泣いた
ところが、実は大久保利通が赤松の監視を命じており、赤松暗殺も半次郎単独の突発的な犯行ではないのです。
これは大久保らの指示を背景にした半次郎の犯行でしょう。武力倒幕派であった西郷が関知しなかったとも、言い切れないのです。
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わかっていること。
それは、半次郎が赤松殺害を悔やんでいたことです。
「赤松先生が死んでしもたとは、残念なこっです……」
遺体は葬られ、多数の薩摩藩士が弔いました。藩主・島津忠義は、弔慰金三百両を遺族に贈っています。
この件に関して、薩摩藩士の間では厳しい箝口令が敷かれ、あまり世間で話題になることもありませんでした。ことの真相が明らかになるのは、大正8年(1919年)、実に事件から半世紀以上経てのこととなります。
人斬りを呼ばれた理由の一端が、おわかりいただけたでしょうか。
名前のイメージほど斬っていないにせよ、この赤松暗殺の一件だけでも、斬ると言ったら、西郷でも止められない。
・「刀を抜いたらただでは収めるな」ですらなく「斬ると決めたらただで収めるな」という思考回路
・師弟の縁を切れば斬ってもよいというおそろしい理屈
・ピストルを構えようとした相手を、即座に切り捨てる薬丸自顕流の威力
このあたりが非常に強烈な印象を残すもので、そりゃあ「人斬り」と言えてしまうのも納得感があります。
ただし、これは突発的な犯行ではなく、薩摩藩上層部の意向を受けてであることは、確かなのです。
半次郎は、指揮官としての能力を戊辰戦争で発揮しました。赤松の弟子の中には、戊辰戦争に乗り気でなかった者もおりましたが、中村はそうではありません。
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しかも、彼はただの冷血漢というわけではありません。
戊辰戦争で転戦した折には、会津若松城開城跡の受け渡しの際、泣きに泣いたとされています。
彼の脳裏にあったのは、島津義弘父子が豊臣秀吉に降伏したときのこと。
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