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【桐野利秋(中村半次郎)】
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それは「桐野の戦争」だったのか
明治維新のあと、桐野利秋と改名。
陸軍少将にまで出世しました。
藩閥政治の結果というよりも、それだけの実力があったのでしょう。
そして明治6年(1873年)、征韓論が原因となって西郷が下野すると、桐野も彼について鹿児島に向かいます。地元で畑を開墾をし、私学校で指導をしながら過ごすことになったのです。
もちろん、そのままでは済まないワケで……。
現政府への不満から、立て続けに不平士族の反乱が勃発。
迎えた明治10年(1877年)、西郷らのいる薩摩において「火薬庫襲撃事件」が起き、「西郷暗殺計画」が桐野にも伝わりました。
暗殺計画まで立てられて、桐野のような男が、どうしておめおめと引っ込むことがどうしてできましょうか。
かくして暴発する桐野らに引きずり出されるようにして、西郷は戦争に身を投じることになってしまったのです。
後に「西南戦争は桐野の戦争だった」とまで言われたりします。
本当にそうだったのか……。
暴発しやすい短気というイメージがある桐野に、西郷をかばうために、責任を背負わせている面があるのでしょう。意見が暴発するような局面では、誰か一人の責任を問うのは難しいわけです。
大西郷になすりつけることは、憚られる。
そこで選ばれたのが、桐野利秋であるように思えてなりません。
「人斬り半次郎」というイメージも、こうした事情から膨らんだものでしょう。
桐野は、最期まで西郷に付き従った側近の一人でした。
敬愛する西郷の死を見届けています。
そして1877年9月24日、額を撃ち抜かれて戦死しました。享年40。
桐野のシルクハット
人斬りというイメージが先行し、どうにも印象が悪化してしまった桐野。
しかし、彼には南国薩摩の愛すべき「ぼっけもん(大胆な人、乱暴者)」の一面がありました。
彼はお洒落で、身の回りの品には気を配っていました。
ドラマ『西郷どん』ではボロボロの布切れに身を包む、極貧少年の姿で登場しましたが、実際は美意識が意外にも高いのですね。
軍服はオーダーメイドのフランス製。
金の懐中時計。
腰のサーベルは、銘刀・正宗を仕立て直したもので、金の鍔に銀の鞘がきらめくというもの。
体からは、フランス製香水の芳香が漂っていました。
そんな桐野は、西南戦争の最後となった「城山の戦い」において、なぜかシルクハットをかぶっておりました。
準備も十分でないまま始まった西南戦争では、服まで不足していました。
桐野は鹿児島の官舎から紳士服を略奪していたのですが、そこにシルクハットが混じっていたのです。
城山の激戦の最中、場違いなシルクハットを被っていた桐野。悲惨な戦いですが、ちょっとユーモラスでもあります。
と同時に彼は「シルクハットの持ち主が誰なのか」、そんなことを気にしていました。
捕虜の中に、県庁職員がいると知ると、持ち主について尋ねます。
そしてその捕虜に、服を借りたことを詫びる書状を託して解放したというのですから、几帳面というか、何というか……憎めない。
人斬り、無教養、猪武者といったイメージが強いようでいて、情に篤い面や義理堅い面も備えた桐野。
西南戦争を背負わされて割を食っている部分がある人物です。
本当に人斬りであったのか、それとも他の部分があるのか。
現在もその像の解明が進んでいます。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
国史大辞典
桐野作人『薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)』(→amazon)
関良基『赤松小三郎ともう一つの明治維新――テロに葬られた立憲主義の夢』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新なるほど人物事典―100人のエピソードで激動の時代がよくわかる (PHP文庫)』(→amazon)