岡田以蔵

幕末・維新

岡田以蔵~人斬り以蔵と呼ばれた男は実際どれだけ斬ったのか?

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人斬りFile no.4 岡田以蔵

1838年〜1865年

出身:土佐藩

身分:郷士、足軽

流派:鏡心明智流、小野派一刀流、直指流

主な被害者:井上佐市郎、本間精一郎、森孫六、大川原重蔵、渡辺金三、上田助之丞、長野主膳の愛人・村山たかとその子・多田帯刀

死因:打首獄門、享年28

特徴:おそらく四人のうちで最も「人斬り」の名にふさわしい

 

井伊直弼の元愛妾・村山たかを……

まずは実際に岡田以蔵が絡んだ有名な事件について少し触れておきたいと思います。

以蔵がターゲットとしたのは「安政の大獄」や「桜田門外の変」で知られる井伊直弼……ではなく、その懐刀として猛威を振るった長野主膳の愛人【村山たか】でした。

彼女は確かに、井伊直弼の元愛妾であり、彼女自身も長野主膳のスパイとして活躍した形跡がありました。

しかし、ひっそりと暮らしてしていたところを晒しものにして、主膳の血を引いているわけではない子供まで斬首したのですから、相当凶悪な事件です。

その実行犯が岡田以蔵らでした。

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幕末の京都は、混沌が支配する町。

天誅を下された死体があちこちに転がり、切断した人体の一部が公家の屋敷にまで放り込まれる始末です。

まったくの勘違いで殺される人もおり、まさにテロルの時代でした。

岡田以蔵は、そんな時代の申し子とも呼べる存在です。

彼はなぜ、これほどまで血に飢えた男となってしまったのでしょうか。

 

隼の如き太刀筋

天保9年(1838年)、以蔵は土佐国香美郡岩村にて誕生しました。

年齢的には坂本龍馬の二才下にあたります。

はじめ、以蔵は、麻田勘七直養の門下生として、小野派一刀流を学びました。

卓越した剣筋は入門当初からであり、太刀の早さは「隼(はやぶさ)」と喩えられたほどです。

大男で、動きは素早く、切れ味の鋭い太刀筋。

メキメキと頭角を現す以蔵ですが、郷士の足軽身分となれば周囲からは軽視されてしまいます。

当時は致し方ないことですが、そんな彼を分け隔て無く接してくれたのが、これまた龍馬作品ではおなじみの武市半平太(武市瑞山)です。

武市半平太(武市瑞山)/wikipediaより引用

万延元年(1860年)に以蔵は、武市と二人で九州諸藩を歴遊し、剣客として名をあげてゆきます。

剣に懸けたひたむきな青春がそこにはありました。

志士としてのたゆまぬ向上心も持ち合わせておりました。

文久3年(1863年)には、江戸の桃井春蔵のもとで剣術を学び、以蔵はさらにメキメキと腕前をあげてゆくのです。

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