松浦武四郎

松浦武四郎/wikipediaより引用

ゴールデンカムイ 幕末・維新

蝦夷地を北海道と名付けた松浦武四郎~アイヌ搾取の暴虐に抵抗する

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例えばアイヌの記録とは以下のようなものがありました。

マキリ(小刀)だけでヒグマと対峙し追い払い、子グマをコタンまで連れ帰った烈婦。

親のために狩りをして、食料を求め、届ける孝子。

関羽の髭を見て憧れて伸ばし、その髭で子供を遊ばせる酋長。

松浦の知的好奇心は、そんなアイヌの話を聞いて膨らんでいきます。

賢いアイヌもいる。
素晴らしいアイヌもいる。
勇敢なアイヌもいる。

髷を結っていない。
服が左前である。
耳環をしている。

そういう服装や風習の違いだけで、野蛮だと見下すなんて、なんと愚かでくだらないことだろう。

アイヌは素晴らしい。

松浦はそんな信念を抱き、様々な列伝を記録したのです。

ゴールデンカムイ』のアシリパは、女性でありながら狩人です。アイヌ女性は狩りをしないと思われてきました。

一方、口承文芸では、存在していました。

松浦の記録にも、狩りをするアイヌ女性が出てきます。少なく、一般的ではない、されどいなかったわけではない。

漫画『ゴールデンカムイ』アシリパのリアリティは、松浦の記録からもわかるのです。

 

アイヌをなぜ苦しめるのか?

松浦は、アイヌの美徳を残すだけで終わりませんでした。

アイヌが、松前藩によって、和人によって、どれほど苦しめられ、傷つけられてきたことか。

幾度も旅をすることで、陰惨な扱いを目にし、怒りを覚えるようになっていきます。

夫に対して貞節を守ろうと、奮闘するアイヌ女性の逸話も多く含まれています。

なぜ、そうなるのか?

多くの和人が、アイヌ女性の美貌に目をつけました。

少女が16にもなれば、そろそろよい年頃だと狙い始めるのです。夫を労働に連れ出し、留守を守る妻を誘う。それでも断られたら脅し、殴りつけました。

そんな脅しに対して、マキリ(短刀)で撃退した女性。その健気さ、必死の抵抗。

和人からの性的暴行により、梅毒に感染した被害者もおります。

アイヌにとっては未知の症状であるため恐れられ、隔離され、一人身を腐らせながら死んでいきました。

妻が和人の妾にさせられ、抗議を聞き入れられず、木で首を吊り、死を選んだアイヌ男性もおりました。

そうかと思えば妻を和人に略奪されることを防ぐため、敢えて障害のある妻を選ぶアイヌ男性も……。

こうした搾取の結果、人口が激減し、滅亡に瀕していったコタン(集落)もあります。

ろくな食事も与えられず、ぎりぎりの給与を与えられ酷使され、どうせ頭が悪いからわからないだろうと、騙し続けられるアイヌの人々。

日本に奴隷制度はなかったと言えるのか?

アイヌ女性のこうした境遇は、アメリカの歴史をも思い出させるものです。

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聡明で観察眼を持つ松浦は、これは和人の残酷さと無知だけの問題ではないと見抜きました。

背景にあるのは、松前藩というシステム。

「場所請負制」という藩が富を吸い上げる仕組みが、暴虐につながっていたのです。

実は、藩そのものが、アイヌからの搾取を前提として成立していました。

しかも、ロシアに対抗するため、その状況は時代が進んで改善どころか悪化するばかり。

アイヌを救うためには、何をすればよいのか?

松浦は考え抜きます。

 

黒船来航、変わりゆく幕末の中で

三度目の蝦夷地探検を終えたあと、松浦はその成果『蝦夷日誌』を水戸藩主・徳川斉昭に献上しました。

水戸藩といえば、幕末の尊王攘夷運動の先駆けとなった藩。

黒船来航以来、日本は国防問題への関心を高めていました。

プチャーチンも来日する中で、蝦夷地探検を進めてきた松浦は、注目を集め始めます。

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幕府も無策ではありません。

「御雇」として松浦を蝦夷地探検させようとし、これに待ったをかけたのが、松前藩です。

「場所請負制」によるアイヌへの暴虐を暴かれたため、松浦に対して敵意を抱いておりました。

この松前藩の妨害も、意味をなさなくなってゆきます。

安政2年(1855年)、幕府は「日米和親条約」による開港に備え、函館を幕府直轄領にします。

そして松浦は、箱館奉行所支配組・向山源太夫の推挙もあって、登用されたのです。

前述したようなアイヌの苦境をまとめた松浦は、幕府が松前藩から彼らを救うのではないかと期待を寄せていました。

しかし、そうはならず病気を理由に、江戸に戻ってしまうのです。

松浦には、失望感がありました。

悪逆な松前藩とは異なり、幕府はアイヌに仁政を施すのではないか?という期待は裏切られたのです。

さらに【安政の大獄】が起きます。

頼三樹三郎はじめ、友人知人が処刑されたことで、彼は幕府にも失望しました。

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このころから、松浦は出版に精力を注ぎます。

学術的な書物だけではなく、紀行文、漫画(イラスト入りの本)、双六といったカジュアルなもので、蝦夷地を知ってもらおうとしたのでした。

江戸と大阪でヒットし、懐も潤った松浦。

しかし、金儲けや名声だけが目当てだったとも思えません。

庶民にまで、アイヌの知識が広まりますように。そのためには、金が必要になる。

そんな彼の考え方が窺えます。

 

新たな世でも、アイヌは救われないのか?

松浦を捉える上で難しいところ。

それは「どの勢力に与していたのか」把握しにくい点です。

頼三樹三郎と懇意にしていたこともあり、水戸藩とつながりがあります。こうした経歴を大々的に解釈されることが、戦前は目立ったものです。

「尊王攘夷の志士」という紹介も、よくなされています。

それならば、幕府に登用されて喜ぶのだろうか。

箱館奉行所支配組・向山源太夫とも、彼は懇意にしていました。

さらに複雑なのは、明治政府からの招聘に応じて出仕し、しかもすぐに職を辞しているところです。

結局、松浦は何なのか?

どういう考え方なのか?

慶応4年(1868年)、幕府から明治政府へと変わる中、松浦はその知識と経験を大久保利通に見出されました。

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「北海道」と名付ける

箱館戦争が終結すると「蝦夷開拓御用掛」、開拓使の「開拓大主展(だいさかん)」、「開拓判官」と、松浦は新政府の役職を歴任しました。

蝦夷地という名称は、変えなくてはならない。

これこそが急務でした。

明治時代初期は、古代律令制の名称をふまえたものでした。そこで「五畿七道」から「道」を採用し、国郡とすべしというところまで決めたわけです。

地名制定は、松浦以上の適任者はいません。

・日高見道
・北加伊道
・海北道
・海島道
・東北道
・千島道

彼の提出した六案のうち「北加伊道」から「ほっかいどう」という読みを、「海北道」から表記を取り入れ、「北海道」が誕生したのです。

その他にも、松浦が提案した多くの地名が、取り入れられました。

彼が蝦夷地を探検し、アイヌの地名を記録したものがかくして残されたのです。

北海道のあちこちに、アイヌ由来の地名が残っていること。これは、アイヌの命名と、松浦武四郎の探検と記録ゆえなのです。

アイヌと和人――。

二つの民族あっての北海道なのです。

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