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【毛利敬親】
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藩内が尊王攘夷に傾くと、発言力は次第に失われ……
黒船来航後は相模(現・神奈川県)の警備をしたり、密かに朝廷からの命令(密勅)で尊皇派になったり。
どちらも「あくまで上からの命令」ということにできますよね。藩士たちも、藩主には意見できてもさらにその上にモノを言うことはできません。
長州藩は一時朝廷と幕府の橋渡しも試みているのですが、薩摩の妨害により失敗。
その後、桂小五郎(木戸孝允)らによって藩内は尊皇に傾いていき、敬親も止めることはしません。
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外国船を打ち払うため、海防力の向上が必要ということで、本拠を萩から山口に移しています。
攘夷を実行して返り討ちにあったり、八月十八日の政変に敗れて京を追われたり、再び京に入ろうとして禁門の変を起こしたりと、はたから見れば悪あがきに近い行動が続きますが、敬親の意志がドコまで反映されているのかハッキリ言えないように思えます。
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そんな重大な局面で率先して動いていたら、「そうせい候」なんてあだ名はつかないでしょうからね。
いずれにせよ敬親は官位を剥奪され、征伐される身になってしまいました。
止めなかったのは確かにまずいですけれども、当時の状況でうまく立ちまわるのも難しかったでしょう。
まして上記のように家臣が藩内の人間にブッコロされたこともあるのですから、「明日は我が身」と思っていたとしても何らおかしくはありません。
ストレスから顔面神経痛に悩まされていた?
第一次長州征伐の際は家老を三人切腹させて藩を守り、敬親自身も萩で謹慎しています。
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その後の奇兵隊結成や長州藩の軍事改革については、どこまで関わっていたかこれまたよくわかりません。
この期間も「そうせい」を貫いていたのでしょう。
慶応四年(1868年)5月には明治天皇に拝謁して官位をもらって名実共に表舞台に復帰、版籍奉還を提案して養子とともに10万石を得て権大納言まで登っているので、この辺は敬親の意志でしょうか。
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しかし、その直後に家督を譲り、二年後に亡くなっています。
家を守るは無能にあらず
毛利敬親は、もしかしたら「自分が生きている間に、毛利家の名誉を回復しておきたい」と思っていたのかもしれません。
享年53で寿命面から見れば微妙ですが、ストレスを溜めていた可能性もありますね。
顔面神経痛に悩んでいたという話もありますし、残されている写真もかなり厳しい表情のものです。
「烈公」と諡された徳川斉昭と比べるとどっちがどっちだかと思うほどです。よほど痛かったんでしょうね。
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おそらく、自分が飛び抜けて有能ではないということを理解していたからこそ、家を守ることを重視したのではないでしょうか。
そうだとすれば、逆に敬親を「無能」と言いきってしまうのはどうかな、という気もしてきます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
毛利敬親/wikipedia