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【平野国臣】
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桜島より熱い男
安政の大獄以来、平野もお尋ね者となっていました。
しかし、本人はどこ吹く風で意気軒昂。
井伊直弼の暗殺事件である【桜田門外の変】についても、一枚噛んでいました。
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薩摩で、計画を練る会合に参加していたのです。
そして井伊直弼の暗殺成功を知ると、祝杯をあげました。
しかし、このことを知って驚愕したのが福岡藩です。
福岡藩は、急いで平野の捕縛を命じ、彼はまたも追われる身の上となってしまいます。
平野は薩摩に逃げ込みました。
が、責任者の島津久光は冷淡そのもの。頼みの綱である大久保も、久光の意を受けているのか、動こうとはしません。
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平野は失意のまま、薩摩を退去します。
久光は、藩内を引き締め、暴走しそうな行動には目を光らせる主君であったのです。
平野は、去り際にこう詠みました。
「我が胸の 燃ゆる思ひに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」
とはいえ、これで平野と薩摩の縁が切れたわけではありません。
この後も平野はたびたび薩摩に潜入、著書『尊攘英断録』を大久保に渡してもいます。
文久2年(1862年)の【寺田屋事件(寺田屋騒動)】では、薩摩藩過激派と連携して行動しようとするも失敗し、危険視された平野は福岡藩の牢に入れられるのでした。
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生野の変
文久3年(1863年)、平野はようやく福岡藩より解放されました。
時は尊王攘夷派巻き返しのターン。
公家と手を組んだ長州藩が、京都で天誅を起こす――そんな時期です。
しかし、情勢は一転します。
【八月十八日の政変】によって、長州藩と彼らの味方である公家が追放されたのです。
このとき平野は、大和で蜂起しようとしていた「天誅組」阻止のため、京都を離れていました。
急報を聞いて京都に駆けつけると、尊王攘夷派は壊滅状態。
平野は都落ちした七卿の一人・沢宣嘉(さわのぶよし)を奉じ、但馬・生野で挙兵します(「生野の変」)。
平野は、年貢半減を掲げて農民を動員しようとしますが、警戒して雇用まではしません。そしていつの間にか沢が姿を消してしまいます。
なんてことはない。準備不足で、かなり無理のある挙兵だったのです。
そんな調子ですから、乱はあっという間に鎮圧され、平野は捕縛されてしまいました。
かくして京都の六角獄舎につながれた平野。
元治元年(1864年)7月に発生した、「禁門の変」に伴う火災が、彼の運命を決めます。
囚人が逃亡して治安を乱すことをおそれた幕府大目付は、平野を含めた30名を斬首したのです。
「憂国十年 東に走り西に馳せ 成敗天に在り 魂魄(こんぱく) 地に帰す」
辞世を詠んだ平野は、首をさしのべました。
享年37。
処分未決のまま最期を迎えたのでした。
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文:小檜山青
【参考文献】
奈良本辰也編『明治維新人物辞典 幕末篇』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『国史大辞典』